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2016-05-02(Mon)

新・日本紀行(107)福岡 「黒田武士」(黒田節) 


九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)



『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真関係)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/



 新・日本紀行(107)福岡 「黒田武士」(黒田節)   、




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/03/Fukuoka_castle_2006_01.jpg/1024px-Fukuoka_castle_2006_01.jpg



https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7b/Fukuoka-jo_002.jpg/1024px-Fukuoka-jo_002.jpg
福岡城




「日本一周の旅の記録」へリンクします
 

酒は飲め飲め 飲むならば 日の本一の この槍を・・、

「海の中道」に足跡を残して次に参ろう。香椎線に沿って先ず戻る。
香椎は古社「香椎宮」(応神天皇:宇佐神宮祭神の両親である仲哀天皇、神功皇后を御祭神とする)でも有名である。福岡市内の渋滞を予想して、市内を縦断する高速1号線の香椎から乗ることにする。 
福岡市と言っても「天神」などを抱える「博多」が中心で、博多という呼称が地元をはじめ世間一般そのようである。 市街地には近代的な超高層ビル群も首都圏並みに目立つ。


福岡」といえば黒田節、黒田武士といえば「黒田官兵衛孝高」、嫡男・「黒田長政」であろう。

平成2014年度のNHK大河ドラマ・『軍師・官兵衛』(ぐんしかんべえ)でも放送されたが、黒田官兵衛孝高は晩年、福岡城の建設中、太宰府に移り住み、己を水に喩えて「如水」と号した。


水五訓』 黒田如水
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり、
一、常に己の進路を求めて止まざるは水なり、
一、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり、
一、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり、
一、洋々として大洋を充たし発しては、蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰と化し、凝っては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失わざるは水なり。


黒田如水は、豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師である。 もともとは播磨の豪族、小寺氏の家老であった。 
この当時、播州の多くの豪族は毛利氏に加担していたが、官兵衛は地方豪族の一家老に過ぎない身ながら織田信長に近づいている。
周囲を敵に回しながらも織田に気脈を通じたのは来るべき織田、毛利の合戦に織田の勝利を確信したもので、先見的慧眼があったともいわれる。この官兵衛の英知を、既に秀吉は見抜いていたのである。


信長は本能寺の変に倒れ、ほぼ官兵衛の読みどうりに時代は推移した。 
官兵衛の情報分析能力は群を抜いていたのである。 織田軍の中国方面軍司令官と言うべき人物が羽柴筑前守秀吉であった、後の豊臣秀吉である。
官兵衛は秀吉の部下として仕え、中国攻略に活躍する。本能寺の変にて信長が光秀に討たれた頃、秀吉は備中高松城(毛利側)を水攻めの真っ最中であった。
知らせが届くと秀吉は慟哭して悲しんだ、しかし、そんな秀吉へ官兵衛は言い放つ、「ご運の開かせ給う時なり」・・と。


これは謀反人・光秀を討った者が天下を取る事を指し、同時に秀吉の本心をつく一言であった。
山崎の合戦で秀吉は光秀を討ち天下を取るが、併せて、秀吉は如水の頭脳的先見性に油断ならないものを感じ取り、人物として警戒していた。 
官兵衛の智謀才略を恐れたのである。 
後に、「おれが死んだあと天下を取るのは黒田の“かん”じゃ・・」と秀吉に言わしめた。


黒田官兵衛はこの時の功で、豊前中津藩12万石を有している。
又、嫡子・長政は初陣では毛利攻めで、その後も賤ヶ岳、九州征伐でも功を立て父、孝高(如水)の家督を相続しといる。 
秀吉死後、長政の活躍は父親ゆずりで主に関ヶ原における智謀、調略は有名である。


秀吉亡き後の豊臣家は、武力派と文治派の対立が表面化する。
その武力派の後押しをして豊臣家を分裂させるのが天下とりを画策した徳川家康であり、その家康の後押しをしたのが黒田長政であった。長政は加藤嘉明、福島正則ら武力派を家康のもとに結束させ、それが後の関ケ原の合戦の東軍の主力となるのである。 
戦後は筑前、福岡52万石の太守となり、家康の養女を娶って外様でありながらも厚遇を受けている。 長政は父親・如水の智謀を受け、武力をも備えた名将であり、生涯30幾戦で負け知らずを誇ったともいう。



博多湾に望む博多の近隣地である福崎(現、福岡市)の台地に縄張りを決め、1601年から6年の歳月をかけて完成したのが「福岡城」である。 
現在は城跡になっていて、大濠公園のほうが有名であるが。 
「福岡」と言えば福岡県、福岡市であるが、黒田氏発祥の地である備前福岡(岡山県瀬戸内市長船町にある地名で、かつては備前国で中世には吉井川の水運と山陽道の宿場町・市場町として栄えた。

又、長船は、備前おさふね 刀剣の里でも有名)に因んで、長政の命で九州の地に出身地の「福岡」という地名を付したという。 
福岡城は藩祖・黒田長政から城主がかわることなく明治維新を迎えている。これは、江戸期の改易、廃領が盛んな時期にあっては極めて珍しいことであるとされている。


次回、 福岡 「黒田武士」(Ⅱ)   





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2016-04-30(Sat)

新・日本紀行(105)北九州 「筑豊の小倉」


九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)



 新・日本紀行(105)北九州 「筑豊の小倉」   、




https://asp.hotel-story.ne.jp/media/0958000100186.jpg
小倉駅



http://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/01397006531.jpg
小倉城





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「小倉生まれで 玄海育ち・・」・・、

北九州の小倉、人力車夫の「富島松五郎」が、思いを胸に祇園太鼓を打つのが小倉城下である。
関門海峡に面した歴史の街・小倉は、陸・海の交通の要衝であり、その中心に小倉城がある。 

お城は関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興(戦国武将、信長、秀吉に仕える。後に肥後熊本藩に移封ず、細川家の祖。妻は光秀の娘・ガラシャ夫人)によって、1602年に本格的に築城が始まり約7年の歳月を要して築城された。 
忠興は、城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工を盛んにし、外国貿易も行い、同時に京風・祇園祭も誕生させている。 

現在でも福岡の各地に特色を持った「祇園祭」が存在するが、中でも、博多の「祇園山笠」は代表的祭りであろう。
小倉祇園祭は城下町としての繁栄のために城内に祇園社(八坂神社)を創設し、領内の総鎮守として豪華で華やかな祭りが始まったとされる。はじめ博多と同様の“山笠”の祭りだったが、明治期に現在に繋がる太鼓を打ち鳴らす祭りへと変化している。

小説の富島松五郎伝が映画・無法松の一生として作品発表されると知名度が更に上がった。
因みに、「無法松の一生」の歌詞では「玄界灘」が登場するものの、実際は小倉を始め北九州は響灘及び周防灘に面しており、玄界灘には面していない。



現在の「北九州市」の中心が小倉であるが、北九州市は九州北部の隣り合った五つの都市・門司、八幡、若松、戸畑、小倉が合併して1963年2月に誕生している。
北九州地区に最初の町ができたのが小倉で、その後は小倉城を中心に城下町として発展し、明治期以降は小倉は軍と商業の中心、門司は国際貿易港、八幡、若松、戸畑は所謂、筑豊の石炭産業と八幡製鉄所(日本初の製鉄所として明治30年に創業した、現在の新日本製鐵(株)の 前身)を中心として、重工業と化学工業が発展し、日本の四大工業地帯の一つ、「北九州工業地帯」として急速に発展する。


筑豊」という呼び名が生まれたのは明治になってからで、この地域の筑前と豊前の頭文字をとって「筑豊」と呼ばれるようになった。 
日本の近代化を支えてきた石炭産業の歴史は、そのまま日本の産業史であり、世界の中の日本であるために明治政府の工業立国の政策と需要の拡大や中央の三井・住友・三菱・ 古河などの大手も進出したことによって、良質で我国最大の炭田を抱える筑豊が時代を推進するのである。

筑豊の地底には今も全体埋蔵量の70%の石炭が眠っているという。
北九州市制誕生直後に、三大都市圏(東京、名古屋、大阪の各圏)外で最初に政令指定都市となった。

五市合併の際、新市名を住民公募した結果、「北九州市」という名称は2位だったという。
1位は「西京市」だったが、「西京」の異名を持つ山口市が反発したというエピソードがある。


無法一代の一生』 歌 村田秀雄 作 吉野夫二郎 曲 古賀政男 
小倉生まれで 玄海育ち
口も荒いが 気も荒い
無法一代 涙を捨てて
度胸千両で 生きる身の
男一代 無法松

「度胸千両入り」
空にひびいた あの音は
たたく太鼓の 勇み駒
山車の竹笹 提灯は
赤い灯(あかし)に ゆれて行く
今日は祇園の夏祭り
揃いの浴衣の 若い衆は
綱を引き出し 音頭とる
玄海灘の 風うけて
ばちがはげしく 右左
小倉名代は 無法松
度胸千両の あばれうち



次回は、「海の中道

  
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2016-04-29(Fri)

新・日本紀行(104)九州 「九つの国」 



九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです。)





 新・日本紀行(104)九州 「九つの国」   、
















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意外と知られていない九州事情は、その昔は九ヶ国に分かれていた、それは

国道2号線で本来「下関」を目指し、周遊観光するつもりであったが時間的に余裕が有ったので一気に九州を目指すことにした。 下関は帰路に立ち寄ることにしよう。

中国道の小月I・C から関門橋を渡るが、その前に関門橋の展望地らしい「塩の浦P・A」にて小休止してみた。 

関門鉄橋のすぐ下に広い展望ゾーンが広がって、関門海峡、巨大な関門橋を一望出来る。 
かなりの迫力と圧巻であるが、本州・四国の架橋を見つめてきたせいか意外と短小に感じたのは小生の偏見か・・!。

橋は今から30年前(昭和48年)に開通した全長1068mの吊り橋である。海峡は、かの有名な「壇ノ浦」や「決闘・巌流島」更に、江戸末期の馬関戦争など歴史的にも特筆される地であるが、これらに関しては後日記載することにする。

橋の右手に門司港が鮮明であり、それにしても関門海峡は、大小船舶の往来が盛んなようである。  

さて、関門海峡を渡る・・、
思えば小生六十有余年、物心就いて脚の行くまま、気のゆくまま各地を巡ってきたが、この地「九州」、九州七県は始めての地であった。 

期待を込めて九州へ向かう。



ところで、四国は「身一つにして面四つ」と言われたが、同じく数字の付く「九州」は、名の如く九つの国の成立によって九州の呼称が生まれた。 

即ち筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩の九ヶ国に分かれていたことから。
そして、日本列島で、いち早く国々が成立したのは「九州」であり、その後、国々の名が付けられたのは律令国家が成立した時期(7世紀後半から8世紀前半頃)と言われる。 
その間の平安時代から明治初期になって廃藩置県が決行せれるまでの凡そ1000年の長期にわたって変更がなかった。


律令制(奈良期後半に定められた政令)において、諸国をまず「五畿七道」(ごきひちどう)に分け、九州は「西海道」と称し、個々の国についての総称を九国、中国(大陸、当時は唐)の地方単位である「」になぞらえて九州と呼んだ。 
これはあくまでも慣用表現であるという。

因みに、「五畿七道」の「五畿」とは、大和、山城、河内、和泉、摂津のことで、都・大和を中心とした畿内(近畿地方)の五つの国の事である。 

「七道」とは、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海(四国)そして西海(九州)の七つの官道と、これにつらなる国の領域を表している。 

特に、都より山陽道、西海道を経て太宰府までつながる道を大路(主官道)と称し、他に東海道、東山道等を中路、その他の道として太宰府より九州各地へと向かう西海道を小路と呼んでいた。
当時は道を軸として国名が付されていったのである。


律令制(りつりょう)とは、大宝律令、その後の養老律令のことで、東アジア(中国の隋、唐の時代)でみられる法体系のことであり、「」は刑罰法令、「」は律以外の法令、主に行政法に相当するもので奈良末期の西暦701年に制定され、この時、合わせて倭国から「日本」へと国号も定めている。

尚、古代、大和朝廷の時代には、九州は「筑紫(ちくし)の国」、「豊(とよ)の国」、「日向(ひゅうが)の国」と称していた。
それが律令によって細分化されて、「筑紫の国」が「筑前:ちくぜん」「筑後:ちくご」に、「豊の国」が「豊前:ぶぜん」「豊後:ぶんご」に、「肥の国」が[肥前:ひぜん」「肥後:ひご」に、「日向の国」が「日向:ひゅうが」「薩摩:さつま」「大隅:おおすみ」の九つに分けられて、筑前にあった「太宰府」が九州全域を統括する場所として九州が完成している。

大君の遠の朝廷」と讃えられた「大宰府」が、大和朝廷期に「筑紫大宰・筑紫の国」として置かれた。
府の庁舎が置かれたところを大宰府政庁といい、「太宰」とは、オオミコトモチと称して最高長官を表す。

当時、中国(唐)、朝鮮半島(百済、新羅、高句麗)との交易があり、当初は外交府としてあったが、白村江での敗戦(はくすきのえ:倭国=日本、百済の連合と唐、新羅連合との戦い)の後、外敵の上陸・南進を防ぐための対外防衛拠点としても存在した。 

同時に大宰府は西海道(九州)諸国を統括する内政の府でもあり、八世紀頃には西国の政治・経済・文化・宗教の中心として都市的な繁栄を見るようになる。


ところで、律令制により「筑紫(ちくし)の国」が分割されて、筑前、筑後の国になったが、この「筑紫」は「つくし」と読むのか「ちくし」と読むのか、という論点があるようだ。
我々、外野の者、関東人は近くに「筑波(つくば)」もあり、筑紫は「つくし」と呼ぶのが一般的のようだが、地元では「ちくし」と呼ぶようである。近現代の福岡県の地名としての「筑紫」は、「ちくし」と読むのが普通であるし、公式の読み方としても多く採用されているようである。
しかし古代、この地域を指していた“歴史的”な地名としての「筑紫」は、「つくし」と読む習慣もあるとか・・?。


次回は、その「筑紫の国」へ向う

  
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