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2017-10-14(Sat)

平成日本紀行(197) 城崎 「城崎温泉」

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広く旅をし、方々を遍歴したものだけが、知識という名の富を有している。」(詩の神・オーディン)




  平成日本紀行(197) 城崎 「城崎温泉」    .




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-140.jpg



 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-139.jpg
温泉街の最も奥にある立寄り湯・「鴻の湯」と温泉寺へ向かう「薬師橋」(下)




「城崎温泉」へ向かう・・、

海岸からではなく、山沿いの県道9号線を行くようだが、かなり急峻な山越えの道である。
途中、「鋳物師戻峠」(いもじもどし峠)という、何とも妙ちくりんな名前の峠があった。 

城崎と竹野町との町境の峠で、一角に「もっこり」という、これ又、妙ちくりんな名前の奇岩があった。 
今にも前に落ちてきそうな大岩で、全長19メートル重さ140トンもあるとか。 

鋳物師戻峠のその名の由来は「その昔、京の鋳物師がこの峠で大地震に出合い頭上の大岩が揺れるのを見て恐ろしくなり、後戻りして逃げ帰った」・・、と看板に記されてある。



峠を下りきると、見通しが良くなって町並みが見え出した、城崎である。
大タニ川に沿って桜並木が風情をそそる。
これらに架かる薬師橋、月見橋も実に美観なる造りである。 

湯の里通りの町並みも実にいい・・!!。 
車を止めて、この風情をカメラに収める。 すると月見橋の手前「薬師橋」から芳紀なる三人の女性が、色鮮やかな浴衣風着物と駒下駄姿で、ニコニコしながらこちらにやって来るではないか・・! 

お嬢さん方、写真を一枚撮らせて頂戴・・」 

ええはヨ・・」 

関西訛りの快い(こころよい)返事が返ってきた。 お互い旅のキサクさであろう。


賑やかな駅前通りから、洒落た造りの「城崎温泉駅」のまえを通り抜け、丸山川岸から今日の宿泊地・国民宿舎「玄武洞」へ向かった。 
温泉街の町中で宿が取れなかったのは、チト残念であるが。
宿で湯に浸かり、夕食を頂いて小休止の後、就寝前に再度、夜の温泉街を訪ねてみた。

湯の里通り」のボンボリ灯りの下、ソゾロ歩きの浴衣姿のお嬢さん達の他、さすがにほろ酔い客の人々も目立つ。 
もっとも小生も、どちらかというと「ほろ酔い」であるが。


宿主に評判の外湯を伺っていたので、云われたままに城崎名物「外湯七湯」のうち最奥にある「鴻の湯(こうのゆ)」に出向いて見た。 
外湯の中で最も古くから開けた湯で、コウノトリが足の傷を癒したことから、この温泉が発見されたという、「鴻の鳥伝説」があり、城崎温泉発祥の地だともいう。 
コウノトリにちなんでか夫婦円満、不老長寿のご利益があり、幸せを招く湯とも言われるが・・?。

比較的大きな駐車場があり、すぐ前に、白壁造りで切り妻様式の純和風の素朴な建物で、落ち着いた雰囲気が嬉しい、500円の入湯料を払う。 
外湯といえども大きな施設であり、気配り簿充分届いていて清潔である。 
ロビーも広く明るい雰囲気になっていて、イスやテーブルもシックで感じがよい。 
脱衣所は細い竹のムシロが敷かれてい心憎いほど気持ちよく、木製のロッカーがずらりと並んでいてこれまた結構広い。 
入湯前から何もかもが行き届いていて、既に心が洗われている。 

湯船に漬かる、既に宵も深まっているとはいえ意外に浴客が多い、中には酔客の姿もチラホラ・・、尤も小生もその内の一人なんだが。 
広く大きな浴槽で湯は少し熱め、無色透明の湯でさらっとした感じで気持ちがいい。 
飲食後なので長漬かりは無用、湯船の際でゆったりと体を休ませる、これだけでも温泉の癒し効果は充分である。 

浴槽の前は大きなガラス窓になっていて庭園の露天風呂が眺められ、七外湯の中で唯一露天風呂が楽しめるのも魅力である。 
露天風呂も内湯に負けないくらい大きさで、大きな庭石を組み合わせた岩風呂は野趣満点の雰囲気がある。 
露天風呂のすぐ裏は山になっていて、吹き降ろしの風が気持ちいい。
ところで、ある好事家が「城崎七湯」の外湯人気度を調べたらしい。

それのよると、鴻の湯―76票 、さとの湯―70票、一の湯―36票 、柳湯―30票、地蔵湯―21票 、まんだら湯―11票 、御所の湯―11票、・・てな具合であったとか。


次回も「城崎温泉


2017-09-23(Sat)

平成日本紀行(193)鳥取 「因幡の国・鳥取」




  平成日本紀行(193)鳥取 「因幡の国・鳥取」     .




鳥取は江戸初期の元和3年(1617)、姫路城主・池田光政(戦国武将・池田輝政の孫)が、因幡・伯耆32万石の領主として鳥取城へ転封された後、鳥取城下町の飛躍的発展がもたらされる。 
この光政の時期(1617~1632)の城下大拡張整備策により、家中屋敷割の設定、町人町の造成、寺院の配置が進められ、旧鳥取市街地の原型がほぼ形成された。


現在、鳥取県人口は日本の都道府県では人口が一番少ない。
だが、官僚、役人の輩出率は全国2位だという。 

又、面積も香川県に次いで2番目に小さい、 なのに空港が二つも在る。(鳥取空港、米子空港) 
もし、これから昨今の建設となれば財政問題でたちまち矢面(やおもて)に立たされ、破談も必須であろう。


こんな小域の「鳥取」は、古来、因幡と伯耆の各地域から成るが、「雨の因幡に、風の伯耆」とも言われる。 

先にも記したが、因幡は元々は「稲場、稲葉」であり、豊受大神が初めてこの地に稲を植え付け、稲作を指導したとされる国であることから、稲作発祥の地とされ、それに起因して「因幡」の名称が付いたともされる。 

即ち、鳥取・因幡は農業を主たるに対し、伯耆は出雲に近く、参詣者達に何とかお金を落させようと努力し、皆生温泉や三朝温泉、大山の観光資源を売り出した、商工業の地域であった。 
又、境港を始めとした漁業も盛んであることから、両者相異なる地風であり、合わせて因幡、伯耆は人の気性も異なると言う。


倉吉は地域的には中間に位置しているが伯耆に属しているという。
しかも、克っては伯耆の主邑(しゅゆう:主だった町)だった。 

それだけに、江戸時代の古風な家並みや蔵が残っている、蔵の町とも言われる。 
大正期以降は、「中海」を有する米子に繁盛地を移すことになるが。 
県内に於いて「倉吉は京都で米子は大阪」として対比されるらしく、どちらも商工業で栄えたことは共通する。


伯耆は古代より中世、近世に到るも商工漁業が中心であった。 
だが、江戸藩政時代、藩主・池田氏は因幡・鳥取に藩庁を置き、倉吉、米子など伯耆へは支所を置いた。 

因幡の鳥取が伯耆を、つまり、農業(農政)が商工業を支配したのである。 
伯耆から言わせれば「我々は諸国から金銀を集めている」という自負があったが、当時は職分制度が鮮明で「士、農、工、商」であり、農は常に工商の上にあったのである。 

地域的特性として他の地域でもしばしば見受けられるが、時代を経た今日でも小さな鳥取県で伯耆だ・・、因幡だ・・といった地域的気性の違いが見受けられるらしく、地域の性(さが)とは面白い。 
だが、これは鳥取県内の事で県外者には全くもって関知せざることではある。



更に、「因幡」について・・、 
縄文期の頃まで、人々は野山を駈けずり回り、放浪したり、海岸や河川、湖沼の畔で食い物を採取し、又な栽培していた。
所謂、動物的(野の獣)生活手法であったが、そのうち、稲作技術が伝わってくると争ってコメ作りに参加した。 

同時期に朝鮮半島で製鉄が始まり、(鉄の開発は中国・周の時代、それ以前に中国・殷の青銅の開発)それらの製造方法や粗鉄が「壱岐」などの島々を通じて日本に伝わってくる。 
製鉄は当初は稲作農耕の道具として広がりを見せ、乗じて稲作文化は波及的に全国へ広まってゆく。 このことが一つの要因となって日本は国として統一されつつある社会基盤が出来上がる。この時期が弥生時代から大和朝廷の時代である。


鳥取の地名は、「因幡国邑美郡鳥取郷」(『倭名抄』)という古代郷名が中世、近世、そして近代へと受け継がれてきたもので、この地に「鳥取部」という古代部民がいたことが、この郷名の由来ともいわれている。(このことは前項の「桃太郎伝説」に記載あり)

時代は下って7世紀(奈良期)になると、日本国に一大国家体制の制度変革とされる「律令制」(現在の法律)が実施された。 

日本国の全ての物(田、畑から人民・・)は朝廷のものであるとし、中央一天所有(中央集権とは意味合いが違う)の公地公民制度であり、特に、土地に執着してた豪族も所有権を変換させられ、「強固な統一国家の造成」としたのである。


これには訳があった・・、
海を隔てた隣国、中国は「」そして「」という巨大統一国家を作り上げたのである。
日本は、その中国に脅威を感じ、これに倣ったのであった。 
それまでの中国は群雄割拠の分裂国家であり、同時期、日本も豪族群の地方分権の国であり、それでよかったのである。

因幡の国はこのような国造り、時代変革(律令国家の形成)最中に出来上がった国であった。


次回は、兵庫・「浜坂」

2017-09-17(Sun)

平成日本紀行(193)鳥取 「因幡の白兎伝説」(2)





  平成日本紀行(193)鳥取 「因幡の白兎伝説」(2)     .




ところで、「白兎の伝承」は、こちら白兎海岸の白兎神社以外の内陸部にも数箇所の白兎神社などがあり、併せて白兎伝承が残されているという。 

鳥取市河原町、八頭町や若桜町は昔は八上郡(やかみのこおり・律令時代より存在していた因幡の国最大の郡)だった所で同様に珍しい伝承があり、因幡の山間地、鳥取市の南部・八頭町には三つの白兎神社があるという。

そして、地元の由緒ある青龍寺や慈住寺には城光寺縁起(旧青龍寺)、慈住寺の記録として白兎に関する伝承案内が記されているらしい。 
現在も青龍寺の歴代住職は時至って廃社されようとした白兎神社を保護し、八上の白兎伝承を守り抜いているという。 
社殿の一部は青龍寺の本堂厨子として再利用され、そこには見事な波にのる兎の彫刻が施されているという。

又、八頭町の隣、兵庫県境に近い若桜町舂米(つくよね)には白兎と天照大神の行幸伝承があり、現在の鳥取・兵庫県境、氷ノ越え(ひょうのごえ)には因幡堂(現在は廃堂・・?)と言うのがあって、そこには大兎大明神を祀っていたとされる。



天照大神の行幸伝承については・・、
天照大神は、丹後の国の元伊勢(伊勢神宮の元宮、 後日、丹後・宮津の項で述べます)で豊受大神(伊勢・外宮)が崩御されたときに高天原からお出向きになり、その後、山陰地方への行幸を計画されたとある。 
そして因幡の国の岩美の御湯神社は、天照大神御一行が山陰へ行幸されたときの行幸在所になったともされている。 


因みに、天照大神が因幡へ行幸された訳は・・?、
豊受大神が稲葉山の麓で稲作の技術を伝えたとされている。 
そのため豊受大神を稲葉大明神として鳥取市卯垣の稲葉神社に祭ってあり、従って、古来この地方のことを「稲葉、稲羽」ともいい、転じて「因幡」になったという説もある。 
伝承では白兎を「素兎」とも記されていて、因幡の白兎は、「稲羽の素兎」と言うことにもなるらしい・・!。


このような豊受大神の奉仕された因幡の地を懐かしんでの天照の行幸となった。
行程は、陸路または海路で先ず隠岐へ渡られ、しかる後に陸路または海路で、因幡へ到着され、内陸の八上へと歩を進められた。 

郡境である三本松付近で八上の土地の神、八上姫の化身である「白兎」と出会い、白兎の導きによって、そこから遥か南西方向へ中山の麓道をたどりながら、霊石山山頂近くの平原(伊勢が平)にたどり着いたという。 

この時、天照大神は霊石山の御冠岩に、因幡地方の平安を願って冠を安置したとされる。 
八上の地をあち、こち行幸され、いよいよお帰りになるときには八上の南東に位置する国境、現在の氷ノ越えの峠をお通りになる際、雪の日の朝に旭日に輝く樹氷をご覧になってその美しさに感動されて、和歌を詠まれたされる・・、
 

『 あしひきの やまへはゆかじ しらかしの
          すえもたははに ゆきのふれしば
 』 

そして、一旦、丹後にお戻りになった後、中央の高天原に御帰還されたとされている。


一方、八頭町に伝わる三つの「白兎神社」は、かつては一直線に結ぶライン上にあったと考えられる事から夏至の日の出、冬至の日没などとも関係し、これは当時、復活再生を願う信仰、太陽神、月神信仰をも示しているのではないか・・?、とする説を或る識者は言っている。 

その為かどうか、この辺りは「日本医療の発祥の地」ともされており、古来、「白兎神社」は病気・疾病傷痍に霊験あらたかな医療の神様ともされている。 

これらの伝承を元に現在地元では、「白兎伝承」を顕彰しようとする動きが活発になっているとか。 
尚、白兎神社は大国主命と八上姫との縁を取りもった仲人、縁結びの神様ともされている・・?。


次回は「鳥取砂丘
2017-09-14(Thu)

平成日本紀行(193)鳥取 「白兎海岸の白兎神社」



  平成日本紀行(193)鳥取 「白兎海岸の白兎神社」   .



 https://media-cdn.tripadvisor.com/media/photo-s/0c/e9/c4/d5/caption.jpg
白兎が住んでいたとされる沖の島




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e0/HakutoJinjya_Haiden.jpg
白兎神社・本殿




国道9号線は平坦な海岸道路になってきて海岸線が実に美景である。

途中の海岸園地には「白兎海岸」とあり、波打ち際に良く整備された展望地・小休の地があって案内板にも御存知「神話の地・白兎海岸」とあった。 
併せて「♪♪おおきなふくろ かたにかけ・・♪♪」という、鳥取県出身の田村虎蔵が作曲した御馴染み・・?の童謡・「大黒さま」の歌碑もある。 
そして、海岸沿いの国道の反対側には立派な鳥居と白い階段の参道を持つ「白兎神社」があった。 

境内及び参道周辺は現在(2005年)、工事、整備中であったが、見るとこの地国道に新しく「道の駅」も出来るらしい。 
元々、白兎神社は、鳥取市白兎地区に旧村鎮守社として存していたとされるが、その為の、神社周辺の整備であろう・・?。 
祭神は白兎大明神だとされるが、無論この一帯は「白兎と大国主神」の神話の舞台でもある。        


大国主神は、出雲大社に主神として祀られている。 
近世の出雲地方とは一般には島根県を指しているが、古代の「出雲の国」は遥かに大きく、伯耆、因幡は勿論、出雲系の古社の分布によっても、九州北部から新潟方面と、その勢力圏は広大であった。 

それに伴って大国主神にまつわる伝説、伝承、昔話、民話、御伽噺など出雲地方は勿論、新潟・越後地方にまで及んでいる。

その、「白兎海岸の伝承」について、記紀や出雲神話には・・、
『 神々の里・出雲で、大国主命の異母兄弟・八十神(やそがみ)達が因幡の国の八上の郷(鳥取市河原町)に美しい姫がいると伝え聞き、この八上姫を娶ろうとした。 八十神達は、弟の大国主命に八上姫への贈り物を大きな袋に詰め込み全てを持たせると、弟を待つことなく因幡の国へと向かった。その途中の海岸で傷ついた白ウサギが泣いていたが・・、』 ここから「大国主と白兎」の伝説、民話が生まれている。


出雲神話の続きともされる民話は、更に語る・・、
昔々、気多の岬に住む白ウサギが大洪水で沖の島に流され困っていました。 白ウサギはワニザメを騙して向こう岸まで並ばせ、その背を渡って帰ろうとしました。 騙されたことを知って怒ったワニザメは、白ウサギの毛をむしって丸裸にしてしまいました。 白ウサギが砂浜で泣いていると、通りがかった悪戯好きの神様(八十神)に「海水につかってから、風に当たるといい」と教わりましたが、痛みはますますひどくなりました。 その後に大国主命が通りがかり、「真水で体を洗って、蒲の穂綿にくるまりなさい」と教え、そのとおりにすると、兎は元の白毛が生え戻りました・・、』


白兎神社の前にある海岸には、兎が住んでいたとされる「沖の島」がある。 
この島からこちらに渡るためにサメを騙して並ばせたというわけであろう、島の中央には鳥居も建っていて、いかにもそれらしい。



大黒さま』 明治38年 旧文部省唱歌

大きな袋を 肩にかけ     大黒さまは 哀れがり        
大黒さまが 来かかると    きれいな水に 身を洗い
ここに因幡の 白うさぎ     がまの穂わたに くるまれと
皮をむかれて あか裸     よくよく教えて やりま  

大黒さまの 言うとおり     大黒さまは 誰だろう 
きれいな水に 身を洗い    大国主の みこととて
がまの穂わたに くるまれば  国をひらきて 世の人を
うさぎはもとの 白うさぎ     助けなされた 神さ


次回も、「白兎伝説

2017-09-12(Tue)

平成日本紀行(192)浜村 「貝殻節」






  平成日本紀行(192)浜村 「貝殻節」   .




 http://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1223362670077/html/common/other/494ae681029.gif
魚見台にある奇妙な「覗石」




鳥取市域に入ったようである。
旧気高町と青谷町の町境、国道9号線沿いに「魚見台」と呼ばれる展望台があった。海に面した断崖上の高台にあり見晴らしは絶佳で潮風がすがすがしい。

白兎海岸・鳥取砂丘、遠くは但馬海岸まで一望でき、日本海は濃厚なブルーで180度の視界が広がっている。
園地には「魚見台」を刻した標石や何故か岩をくり抜いた「覗石」とやらもあった。
そして、ここ、魚見台には日本海沿岸の浜村、賀露、泊、妻波などに伝わるという「貝殻節」が有名で歌碑なども建っている。 

この展望地は昔、魚の(主にイワシ)の大群が押し寄せたときに、ここから漁夫が大声で知らせたことから、魚見台と名付けられたという。 
ほぼ真下に浜村漁港の波提が覗える。

この浜村地区には「浜村温泉」という山陰地方の歴史のある温泉もあり、美しい海辺に位置していて明治時代に開湯した付近の勝見温泉と共に、総称して「浜村温泉」と呼んでいる。 
近海の取りたての新鮮魚料理が堪能できるとともに、湯量が豊富な為、プール風の大浴場を持つ旅館も多いという 。 


この地方は、哀愁をおびた民謡「貝殻節」の発祥地としても知られる。
「貝殻節」の冒頭は「何の因果で・・・」で始まるが、実際に、この地方では何年かに一度、海岸地帯に「帆立貝」が大量に発生するという。 

沿岸の漁師達はこの時とばかり船を仕立てるが、荒れる波の上を漕ぎ手と漁具を操るのがなかなか大変らしく、この時の辛さを歌ったものという。 

伝説によると、因幡藩主の家来だった若侍が、土地の娘を身染めて漁師となり、馴れぬ手付きで貝殻漕ぎの船に乗り、櫓を漕ぐ重労働の辛さに「何の因果で・・・」と口走って溜息をついたという話もある。 

昭和8(1933)年「浜村音頭」として世に出したところ、大変な人気で、地元ばかりでなく、全国で唱われるようになり、潮の香りを漂わす節回しでしたので、曲名も元歌の「貝殻節」と呼ばれるようになったという。


貝殻節」  鳥取県民謡
何の因果で 貝殻漕ぎなろうた
カワイヤノー カワイヤノ
色は黒うなる 身はやせる
ヤサホーエヤ ホーエヤエー
ヨイヤサノ サッサ
ヤンサノエー ヨイヤサノ サッサ

戻る舟路にゃ 櫓櫂が勇む (繰り返し)
いとし妻子が 待つほどに (繰り返し)

忘れられよか 情もあつい
あの娘ァ 浜村 お湯育ち

浜村沖から 貝殻が招く
嬶よ まま炊け 出にゃならぬ

帆立貝なら 帆立てて行こよ
わたしゃあなたの 身を立てる


次回は、「因幡の白兎伝説


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