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2017-08-31(Thu)

平成日本紀行(186) 美保関 「国引き伝説」





 平成日本紀行(186) 美保関 「国引き伝説」   .




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/ce/Shimane_Peninsula.JPG/1024px-Shimane_Peninsula.JPG
神話や伝説の多い島根半島 (Wik)





島根半島は「神が海の向こうから引っ張ってきた」という「国引き伝説」がある・・!、そして遠流の島・隠岐の島諸島と竹島は・・? 、

これは時空を超えた伝説か・・!?、
島根半島は神が海の向こうから引っ張ってきた」という「国引き伝説」がある。 

これは、「記紀」(古事記、日本書紀)には記録されていないが、「出雲風土記」にのみ登場するものらしい。 
「出雲風土記」の記載内容とは八世紀初頭、大和朝廷が全国の60余国に作らせたという地名起源の伝承や地勢、産物などが郡ごとに記したもので、ほぼ完本とされていて残っているのは「出雲」だけだともいう。


出雲祖神の一人・八束水臣津野命(ヤツカミズオミツヌノミコト:大国主と同一神ともされる)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。 
そして、佐比売山(三瓶山:太田市南の名山)と火神岳(大山:伯耆大山)に綱をかけ、「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、出来た土地が現在の島根半島であるという。 

尚、半島沖に浮かぶ隠岐や竹島の島々は、国を引くとき落ちこぼれたものであるともいわれる・・?。 
又、完全に引き込むことが出来ず、宍道湖、中海という形で海域が残ってしまったとも言う・・? 

国を引いた綱は弓浜半島になったとしていて、いずれにしても何ともおおらかな話である。 そしてこの半島にバランス良く、「三社大神」が祀られていることは前に記した。
出雲は「国造り・・」「国譲り・・」そして、「国引き・・」と賑やかな地柄である・・!!。



ところで、その隠岐諸島は現在、島根県に属し、2004年の合併によって島根県隠岐郡町として、諸島の全域を占める。 人口17000の空港を持つ町域であるが、一般地域同様、過疎化に悩んでいるという。 
因みに、「竹島」に関しては現在韓国が実効支配しているのは周知であるが、島根県は自国の領土として2005年は日本が竹島を編入して100周年にあたるため、同年「竹島の日」に制定された。
 
昭和23年頃のある時期、韓国初代・李承晩大統領が「竹島、対馬は韓国の領土・・だ」と言い出し、李承晩は日本海上にライン(りしょうばんライン)を引いたのである。勿論、日本側は承知していない。

ラインは、昭和27年(1952年)1月18日、李承晩の海洋主権宣言に基づき設定した漁船立入禁止線で、韓国では「平和線」と呼んでいる。 
そして“かの国”は、海洋資源の保護のためと称して、韓国付近の公海での漁業を韓国籍以外の漁船で 行うことを禁止したものである。 
これに違反した漁船(主として日本国籍)は 韓国側による拿捕・臨検の対象とした。
そして実際に、銃撃される事態まで起こった。

国際法上の慣例を無視した措置として日本側は強く抗議したが、このラインの 廃止は昭和40年(1965年)の「日韓漁業協定」の成立まで待たなくてはならなかった。  
協定が成立するまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えている。

現在でも韓国は、李承晩ラインによって竹島を実効支配しているが、島根県の姿勢はともかく、日本政府の対応は未だは無為のままである・・!!



出雲は「国造り・・」「国譲り・・」そして、大らかな「国引き・・」の伝説と賑やかであるが、現在我が国の領土は、北方の樺太を含む北方四島はロシア(旧ソ連)、そして、「竹島」が隣国・韓国によって、はたまた、中国において東シナ海・南西海域の尖閣諸島(せんかくしょとう)などは、「国引き」されているのが現実である・・!!。

尤も、竹島などは「国引き」で落ちこぼれた島であるので、元々、当国(韓国)の島である、とでも言い出すのでは・・?。


次回は、「鳥取・境港


2017-08-31(Thu)

平成日本紀行(186) 美保関 「美保関灯台」





  平成日本紀行(186) 美保関 「美保関灯台」    .




写真:雄大な展望台を持つ美保関の地蔵崎



美保関灯台




美保関の灯台へ向かう。
岬のほぼ突端辺りから斜面を登ると、良く整備されたさっぱりした園地があり地蔵崎園地とあった。 
海上交通の要衝であったこの地で、航海の安全を祈ったお地蔵様が岸壁や波打ち際に多数奉納されるようになったことから「お地蔵様がある岬」ということで中世以降から「地蔵崎」と呼ばれるようになったと言われる。 

ここからの眺望は素晴らしく、日本海の雄大な眺めが一望でき、はるか沖に「隠岐の島」が浮かぶ。


更に、岬先端に灯台があった。 
外洋北部は複雑に入り組んだリアス式の断崖の景観が圧巻である。 
この先に、白亜洋風の石造りのガッシリした美保関灯台が海抜73mの岩上にあり、高さ14mで、中間に一周の展望デッキも付いている。 

明治31年(1898)に日本人技師の設計により、地蔵崎灯台として建設、後に美保関灯台と改めたとする。
灯台脇には、同様の建造物である屋敷がある、灯台守の宿舎を改造したレストラン兼売店の美保関灯台ビュッフェであった。

只今営業中とあったが、他に客は無いようで遠慮した。
遥かに見て取れる「隠岐の島」は後鳥羽上皇や後醍醐天皇などが流された配流地として有名である。


問題の「竹島」も、
島根半島から北東へ約65km、日本海に浮かぶ「隠岐諸島」は大小180余りの島々から成り立ち、日韓で係争中の「竹島」も含む。 

奈良時代から平安初期にかけては、大陸との日本海外交の中継基地として大陸文化の伝来に大きな役割を果たした。 
中世以降は遠流の島と定められ多くの貴人、文化人が配流され彼らが伝えた都の文化は、時空を超え今なお伝統芸能や行事の中に確実に伝承されている。


尚、隠岐諸島、竹島は次回、出雲の「国引き伝説」で・・、

2017-08-31(Thu)

平成日本紀行(186) 美保関 「美保神社」





  平成日本紀行(186) 美保関 「美保神社」    .




美保神社参道鳥居、




豪壮な拝殿と奥に本殿




美保神社は、事代主神(大国主の息子)である「えびす様」を祀る・・、

下って、美保神社へ参った。
美保漁港のすぐ前に参道があり、第一、第二と二本の鳥居が迎え、本殿はこの奥の森の中に鎮座していた。 

民謡にも歌われる「関」というのは、宍道湖と中海を抱える島根半島の東端、神話で有名な、ここ「美保関」のことで、正面の美保漁港、美保湾は日本の鯛の三大産卵地の一つとさる。 
鯛と言えばエビス様に通じ、タイ(鯛)を肩にするエビス様は事代主命(コトシロノヌシノミコト)と言われる。 

美保は事代主命と美保津姫とのロマンスの地であり、両者を祀っているのが「美保神社」である。

出雲神話では、事代主神は出雲国の支配者である大国主命の息子として国譲りの話にも登場し、漁業、海運、商売繁栄の守り神として信仰されているほか、豊作祈願の神様ともされる。 
事代主命は父神に従って河川海洋の幸を司り、四方を海に巡らされた日本に、豊富な魚類を子孫に与えた神様である。 
神話の中で事代主神が美保関で魚釣り(鯛釣り)をしていた話から一般には「えびす様」で有名で、大国主神共に福徳の神様、七福神の一人としても有名である。 

拝殿の後方に二つ並んだ本殿が鎮座している。 
写真が鮮明ではないが、屋根の上にある千木は、左の社は垂直に切られていてこれは「男神」(事代主神)を表し、右の社は水平に切られていてこれは「女神」(美保津姫)を表している。


松江を中心と考えると、島根半島の西の端にある「出雲大社」、中心に松江の北にある「佐太神社」で、佐太大神(猿田彦大神と同一神としている)を祀る。
この神社は出雲に次ぐ古社(雲州二宮)で、珍しい三殿並立の社殿であるという。 
北殿に天照大神、南殿に素盞鳴尊(スサノオノミコト)などが祀られている。 

そして東端に鎮座しているのが「美保神社」で、いずれも重厚で圧倒的威容を示し、拝殿も、本殿もかなりの規模を誇る。


次回は、「美保関灯台



2017-08-31(Thu)

平成日本紀行(186) 美保関 「関の五本松」





 平成日本紀行(186) 美保関 「関の五本松」   、





http://stat.ameba.jp/user_images/20140510/19/sanin-department-store/2b/7a/j/o0576038412936691820.jpg?caw=800

 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4a/Japan_National_Route_431_-06.jpg/800px-Japan_National_Route_431_-06.jpg
堺水道に架かる境水道大橋





関の五本松、「あとは伐(き)られぬ夫婦松」・・ 、

悠々とした「境水道」際を行く。
この水道は島根県と鳥取県の県境でもある。

この外海寄りに美事な橋が架かっている、「境水道大橋」である。 境港市と島根県美保関町を結ぶ大橋で長さ700m、高さ40mあり、橋下には大型船や漁船が賑やかに往来している。 

外海の美保湾へ出ると、さすがに海の色が違って見える、鮮やかに濃いのである。 
このまま島根半島の海岸線を行くと、鄙びた美保の港へ出た。


その手前に「五本松公園」の案内板があった・・、
かなりの急斜面の山上に在るらしく、民謡・「関の五本松」でもお馴染みである。 

少し登った処に、頂上へのリフトがあり、小さな御土産屋があって夫婦で営んでいるらしく、リフトも同様に管理しているらしい。 
観光客らしい人は誰も居なく、当然リフトは止まっている。

お客さん、リフト乗るかね・・?」
ハイ、お願いします

近くにある電源版のスイッチを入れると、徐に(おもむろ)リフトが動き出し、御夫婦と三言、四言話を交わしてリフトに乗った。





http://www.shimane19.net/column/uploads/2016/07/30/s_DSC04930.JPG
写真:五本松の尾根より見下ろす、長閑な「美保港」



好天に恵まれ、リフトが上昇するに従って眼下に美保の港が鮮明に浮かび上がってくる。
標高150mの丘は公園として良く整備されており、この一角に「関の五本松」の碑が有る。

碑のところには初代の黒松であろうか、太い幹が残されている。(小生が訪れたときは初代黒松の切り株は野ざらしであったが、その後小屋根が掛けられたらしい)



江戸期の頃、かつては船が航行するための目印にしたという島根半島先端にあたる「五本の松」であったという。

藩政時代に美保関(美保神社)と松江を結んでいた旧松江街道は、海を見下ろす尾根上を通り、そこにあったのが街道時代の景勝地が関の五本松であった。 

港に出入りする漁船や日本海を行き交う船の目印でもあったが、或る時、松江の殿様が松江街道沿いに並んだ五本の松の一本に槍が当たり、そして眺望の邪魔になるからとして突如、伐採してしまったという。 

それまで美保港へ入ろうとする多くの船の目印であった松の一本を伐られてしまったことは、当時の大事件となり、その後、民衆は「あとは伐られぬ夫婦松」と歌いながら、松江城下を練りまわり、請願のデモを行ったという。 
民衆の声を聞いた殿様は、あとの四本を伐るのを中止したというのが伝説になっている。


そして、民謡になった「関の五本松」である。
「関の五本松」は、アラ エッサッサの「安来節」とともに、出雲地方の二大民謡といわれ、大正期頃には東京にも伝わり、そこから全国的に流行したという。       


関の五本松』  島根県民謡

ハアー 関の五本松 ドッコイショ
一本切りゃ四本
あとは切られぬ 夫婦松
ショコ アショコ
アショコホイノー松 ホイ

ハアー 関の女は ドッコイショ
医者より偉い
縞の財布の 脈をとる
ショコ アショコ
アショコホイノー松 ホイ


次回、「美保神社

2017-08-31(Thu)

平成日本紀行(186) 美保関 「昭和の決断」 




 平成日本紀行(186) 美保関 「昭和の決断」   、



https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/a/a1/Lake_nakaumi_landsat.jpg/800px-Lake_nakaumi_landsat.jpg
島根半島と中海(中央が大根島 衛星写真・wiki)




「昭和の決断」、中海の大干拓事業中止・・! 、

国道431から中海サイドを経て島根半島の「美保関」へ向かう。 
中海は地図上を見ると大根島(だいこんじま)、江島と二つの島が浮かぶ。 
この二つの島が「八束町」(やつかちょう)を形成している珍しい町域であった。(2005年松江市と合併) 
更に、車窓からも眺められるが長大な堰堤(堤防道路)で島の間と湖岸を結んでいるのである。
厳密に言うと湖岸部分は橋で結ばれていて、実はこの堰堤部分は干拓事業の名残という。

神話の海、まほろばの海と呼ばれる「中海」の美保関側を干拓して農地を作ろうという、当時の米増産時代の思いつきだった。 

一般的な見方であるが、公共事業は一旦動き出したら止まらないというのが普通で、好例なのが長崎・諫早干拓であろう。 
漁業被害や環境破壊が報告されているにも関わらず止まる気配がないのが実情であった。


「昭和の国引き」は失敗・・?? 、

しかしながら、この中海干拓に関しては事業が相当部分進行してしまったにも関わらず中止が決定したという。 
中海の大規模干拓および淡水化は、古来、出雲地方でよく言われる国引きの神話になぞらえて「昭和の国引き」とも言われ、1960年代に事業が開始された。 
この間、一部完成して共用されるまでに及んだが(南部、揖屋地区)、その後、時の地元出身の竹下総理の肝いりもあり、国の減反政策が本格的になり、又、水質汚染や環境破壊を懸念した反対運動が高まり、近年では、県の財政圧迫なども発生して、結局、凡そ40年を経て、中海・宍道湖の淡水化を目的とした大規模干拓事業は2000年に完全中止が決定したという。


無駄な公共事業費、800億円がパーー・・!! 、
結局、中海と境水道を仕切っていた中浦水門は(江島と境港間)は取り壊された。
かっては、水門の総延長は414m、10門の二段式ローラーゲート(上層と下層の2つの扉体を操作する)と中央部に設置された3門の閘門(こうもん:運河・放水路などで、水量を調節するための堰)から構成されていた。 

閘門の上の部分は、船舶が通過する時に備え、跳ね橋としての機能も持っていたという。 
現在、これらの建造物は「世紀の遺物」となり、やがて消えてしまった。
この水門の構築には100億円かかり、更に、取り壊しに100億円かかって、合計200億円がパーになったという。

結局、総じて無駄な公共事業費は700億とも800億とも言われる。


次回は、美保関・「関の五本松



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