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2015-08-20(Thu)

近畿・神戸 「有馬温泉・Ⅱ」 








 近畿・神戸 「有馬温泉・Ⅱ」  









温泉寺











西宮へ至る六甲北道路を直進し、更に芦屋に至る芦有ドライブウェイを過ぎると間もなく「有馬温泉」である。

清らかな有馬川沿いを行くと風情のある朱色の太閤橋が見えた。 近くに神戸が始発の神戸電鉄有馬線・有馬温泉駅が伺える。 
主要道路は、温泉街の中心ともいえる善福寺の前あたりが、程よく行き止まりになっている。 車を置いて暫し

周辺の様子を確かめる、奥まった周辺は坂道の多い傾斜地に旅館やホテルが密集しているようだ。
左手に有馬温泉の名物湯「金の湯」が在ったが、残念ながら休館であった。 伺うと「銀の湯」は開業しているらしい。


有馬温泉の由来は神代の時代に遡るという、三古泉・三名泉の一つである。
孝徳天皇が妃ともに有馬温泉に滞在中、待望の皇子が生まれたので名を「有間」と名付けたといい、後の有馬皇子である。 

有間皇子は、大化の改新や皇位継承をめぐる複雑な争いの中で19歳の若さで散っていった悲運の人である。 日本書紀には、皇子は奇しくも紀州・白浜の湯で政変を企んだとのかどで絞首にされたと記されている。 奇しくも生死とも温泉に関係した皇子であった。


中世には清少納言は枕草子で有馬温泉に言及している。
太閤秀吉が愛した温泉地としても有名で、秀吉は有馬を何度も訪れている。
温泉寺の近くに「湯山御殿」を建てたと伝えられていたが,極楽寺本堂横の庫裏下から岩風呂や蒸し風呂,庭園跡などが発掘され、当時を偲ぶことが出来るという。 現在,太閤の湯殿館という資料館が開設され,遺構が保存されている。



大阪より1時間、神戸三宮より30分とアクセスも良く、関西の奥座敷として親しまれる。泉質は、含鉄強塩泉の金泉(金の湯)と呼ばれる赤褐色の湯と、無色の炭酸泉・銀泉(銀の湯)の2つ、交互に浸かれば相乗効果があると言われる。


車を池坊満月城ホテルの駐車場に預けて、先ずは銀の湯へ向かう。
西南の方向、温泉寺と念仏寺の急坂、階段を行く、有馬でも一等地の高台である。
この辺りは太閤秀吉が有馬を訪れていた頃は、足元から湯が湧き出していたと言われ、この温泉を「上之湯」とか「願の湯(ねがいのゆ)」と呼ばれていたらしい。

丁度この地に「太閤の湯殿館」というのが在り、秀吉の湯殿跡といわれるところらしい。
念仏寺は、太閤秀吉・北政所の別邸跡と言われる由緒ある寺院で、雰囲気も良く見晴らしも素晴らしい。



 次回、神戸 「有馬温泉・Ⅲ」  






 

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2015-08-16(Sun)

大阪 「大阪城・・Ⅱ」 




 新・日本紀行(53)大阪 「大阪城・・Ⅱ」 





https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ac/Osaka_Castle_Nishinomaru_Garden_April_2005.JPG




大阪城の石垣     (出典;Wik)




現存、最長記録の大阪城


因みに、豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも30数年で焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後70年を超え、最も長命の天守になっていて、国の登録文化財でもある。 
登録文化財 (登録有形文化財)とは、文化財登録制度(文化庁'96~)により、文化財登録原簿に登録(リスティング)された建造物などを指し、名古屋城、熊本城と共に日本三大名城の一つといわれる。

現在の大阪城天守閣は、内部が豊臣秀吉や大阪城にかかわる豊富な文化財を収蔵する歴史博物館となっており、シアタールームやジオラマなどを使ってわかりやすく歴史を解説している。
地上50mの展望台からは、大阪の街を一望でき、天守閣を含む周辺一帯は大阪城公園として整備され、桜の名所としても有名。
又、櫓、門の各種建物の見所も多く、各施設、神社、お城に関する七不思議等、多数の名所がある。


普請大名自慢の大阪城石垣

しかし、何といっても大阪城の特徴的な見所の一つに、お城を取り囲む「石垣」であろう、この石垣は主に江戸初期のものであるという。
天下の徳川幕府は、主に西国等の大名に命じて大阪城の大修築を行わせた。 
この時の石垣はなるべく良質で大きな立派なものが喜ばれ、工事を請け負った大名達は、自分の「」をその石に刻み込んだ。その石のことを「定紋石」と呼んでいる。 
長州の毛利家、日向・薩摩の島津家、岡山の池田家、松江の堀尾家など諸大名の家紋が刻まれているという。

徳川・「大阪城」の石垣用石材は約百万個と推定される。
これらの採石場所は加茂(京都府)のほか、六甲(兵庫県)や小豆島(香川県)など、瀬戸内一円から切り出されたことが知られている。
巨石のビック5は、一に桜門の蛸石(59.43m2・備前犬島・岡山池田家)、二に京橋門の肥後石(54.17m2・讃岐小豆島・岡山池田家)、三に桜門の振袖石(53.85m2・備前犬島・岡山池田家)、四に大手門の見付石(47.98m2・讃岐小豆島・熊本加藤家)、五に大手門の二番石(37.90m2・讃岐小豆島・熊本加藤家)等などである。

小生は、大手門よりの入退出であったため大手・見付石(4位)と大手二番石(5位)を拝見、その圧倒的な大きさに驚愕しながらカメラに収めた。
因みに両石は、巨石と巨石の隙間に、笑い積みというユニークな石積みが施されているという。 石の隙間が、笑った口の格好に、なんとなく見えることから笑積みという。 
徳川大阪城建設の際の、担当大名 加藤忠広(秀吉子飼いの重臣・加藤清正の次男)の遊び心が冴える石垣であるという。
忠広の父・加藤清正は、名城・「熊本城」の築城者で知られる。


次回は、悲劇の「尼崎






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2015-08-16(Sun)

大阪 「大阪城」 



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 新・日本紀行(53)大阪 「大阪城」 







「太閤はん」の天下の象徴は、何といっても「大阪城」、 (提供;; Wik)




道は谷町四丁目に至り、既に大阪城の一角で巨大な天主閣が見えてきている。

ところで、谷町四丁目を「谷四」、天神橋筋六丁目を「天六」というように、○町△丁目を「○△」と頭で略す独特の習慣が大阪にはある。
東京の人は、銀座四丁目を「銀四」と言ったり、新宿三丁目を「新三」と言ったりはしない。これらも、大阪人の「いらち」の特性なのであろうか、ともあれ大阪は地域に土着し、それらを愛称で呼んでいるのである。


早速、近くの大手門前の広場にヒョイと車を置いて、カメラ片手に出かけた。
大手門は大阪城の正門で、良く整備された広い上り坂の頂にどっしりと構えている、別名で追手門ともいう。 続いての多門櫓も迫力あり、城郭に近ずくにしたがって、巨大な造り、文字通り天を突くような天守閣の威容が迫る。

城郭は、概ね白を基調としたもので、各層の壁に切妻風の屋根型を嵌め込んで、独特の偉容と豪壮感を形造っている。 破風部分(日本建築で屋根の切妻についている合掌形の装飾板)の飾りもいいが、切妻の壁の上部と左右部に金色で施した装飾が光輝いて、華美を誇っている。

大阪城は、大阪の象徴であり、誇りである。
築城者は、大阪で最も親しまれている、あの「太閤はん」である。


歴史は遡る

大阪城は室町時代の僧・本願寺第八世の蓮如(れんにょ)に始まるのである。
他宗派に押されていた浄土真宗は、本願寺(京・西本願寺)を中興し、現在の礎を石山の上町台地の北端にある小高い丘に本願寺別院として「石山本願寺」を造営した。現在の大阪城の地である。
寺院とともに町屋も出来、周辺を寺内町と称した。
ここが台地にそった坂の上にあることから「小坂」と言っていたが、後に「大坂」と呼ばれるようになったという。 
これが大阪城の起こりであり、地名も大阪に成っていった。


要塞化した門徒集団の本願寺と風雲の「大阪城」

戦国期には、城郭に匹敵する堅固な石垣をめぐらして要塞化した。 
織田信長との石山合戦は良く知られているが、この時は、主に篭城戦で戦ったが、長引く戦闘の後、信長の攻勢に顕如は敗北する。 
信長が、本能寺で逝った後、石山本願寺とその寺内町であった地に、豊臣秀吉が築城を開始し大阪城とした。 
完成に1年半を要したが、本丸は石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施され、城のすぐ北部には大淀川が流れ、堀溝を築いて水を引き入れ、天然の濠としている。 

しかし、当の秀吉は京都の聚楽第や伏見城に住んでいて、大阪城を居城とはしなかった。 
秀吉死後は、遺児の豊臣秀頼が母(淀君)とともに大坂城に移り、徳川幕府の成立後も秀頼は大坂城に留まり摂津(大阪)を支配していた。 

1614年の「大坂冬の陣」、翌1615年の「大坂夏の陣」で徳川家康の率いる大軍に、さしもの大坂城も落城し、豊臣氏の滅亡とともに大阪城は落城し灰燼に帰した。
江戸期は幕府直轄領(天領)として、徳川秀忠によって再建が始められる。 
大坂城をより豪壮な城郭として、豊臣時代の城を圧殺するかごとく全く新しく築くことで、豊臣氏の記憶を封じ込め、かつての豊臣氏の勢威を凌駕する徳川氏の威信を全国に示したと言える。 
現在の天守閣は概ね、この時代のものである。

幕末、鳥羽・伏見の戦いで、城内の建造物はほとんど焼失し、昭和の太平洋戦争では、1トン爆弾が多数投下され、猛烈に破壊された。 
そして、昭和期、平成期、天守閣の大規模な改修工事が行われ現在の城郭・天守閣が完成する。
歴史の大波にもまれにもまれた五層の大天主・大阪城も、今は平和日本の象徴として浪速の空に聳え、大阪の民の安穏を祈り見下ろしている。 



次回、 現存、最長記録の大阪城






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2015-08-16(Sun)

大阪 「四天王寺の宗派」





新・日本行(53)大阪 「四天王寺の宗派」










四天王寺概略図   (出典;Wik)



四天王寺の宗派について、

四天王寺は、日本仏教の祖とされる聖徳太子建立の寺であり、「日本仏教の最初の寺」として既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、近年、四天王寺独自の「和宗」とし、その総本山としているようである。 
因みに、小生にも若干縁のある「信州長野・善光寺」は誰でもお参りできる無宗派のお寺として知られる。 
それは、善光寺が仏教伝来直後の日本で初めての仏様を本尊とした、日本仏教の根源であると考えられてきたためで、つまり、日本に仏教の宗派が生まれる以前に善光寺が創建されたことに大きく関係するという。
但し、日本に仏教が始めて伝わってきた当時は、大陸や朝鮮半島では大乗仏教とされる「天台宗」が盛んで、日本でもその布教当時は影響は受けているとされている。 
従って、両寺院とも、今でも天台宗系の教義や管理運営、日常の作法、行事を主体に努めているようである。(善光寺は、浄土宗と両立)


境内を回参して再び、石の大鳥居へ戻ってきた。
1400年前の飛鳥時代に建立された大阪・四天王寺を手がけたのは6世紀(西暦578年)に聖徳太子が百済から招いた三人の工匠たちであったという。 
その一人の名を「金剛重光」といって、企業として日本、世界でも例がないほどの歴史をもつ建築会社「金剛組」の初代社長であったという。
この鳥居の程近く、四天王寺の西方を守るように「金剛組」は1400年を経た今日も存在しているのである。 

現在、寺院から特別に「四天王寺正大工第39世金剛広目利隆」という名称が与えられているという。 利隆という名称は現在の代表者の名前であり、広目とは四天王寺の西方を守る広目天のことで、現在の四天王の一角を占めるという意味らしい。


ところで、四天王寺は過去に七回、焼失や倒壊の憂き目にあっているという。 
信長の焼き討ち、大阪冬の陣、室戸台風、空襲などで破壊され、その都度再建してきてのは金剛組であった。
状況が一変したのは、やはり明治初頭の廃仏毀釈であった。 この時、37代目は「先祖に申し訳ない」として自殺しているという。

室戸台風で損壊し、そして再建した直後、今度は昭和の戦争による空襲で殆どが焼失してしまった。 金剛組は同じ轍を踏むまいとして、主な建物はやむなく戦後は鉄筋コンクリート造りにしたという。 
四天王寺とともに寄り添うように金剛組が存続してきたは、やはり確かな宮大工の技術であった。 平成14年、金剛組は四天王寺に「番匠堂」という、聖徳太子が道具の曲尺(かねじゃく;形が矩形、すなわち直角に曲ったものさし)を持つ像とともに、御堂を寄進している。 以来、全国から参拝する大工方が絶えないという。 
老舗」とは、「仕似せ」であり、似せて物事を造り挙げ、続ける事であった。
妙な思いを巡らしながら、四天王寺を後にした。


次期、「大阪城





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2015-08-16(Sun)

大阪 「四天王寺」






 新・日本行(53)大阪 「四天王寺」 





四天王寺の境内の西側入口にあたる「石の鳥居」と奥は「極楽門(西門)」



石の鳥居側(西側)から観る。五重塔と金堂(左)  (出典;Wik)



「四天王寺」は日本仏教の最初の寺

この「浪速」の地方は古来、大和の都(奈良)、京の都の至近にあって大和民族のもっとも重要な活動舞台であった。
この浪速の津は瀬戸内海の始点でもあり、終点でもあって海外の朝鮮半島、中国大陸へは北九州を通じて、そして太平洋から国内の各地へと、その大動脈を握っていた。
古代、推古天皇の御世、聖徳太子がこの地に「四天王寺」を建て、中国の「」、「」といった通商交通の外来客を招き、接待を行なう館としたのも頷けるのである。


その四天王寺へ向う・・、

環状線を安倍野の近くで下りたのであろうか・・定かでないが通天閣の上部が建物越しに見えていた。
天王寺駅の賑やかな駅前を通ったようだが、四天王寺がどの位置にあるか、なかなか見つけられない。
でも、どうやら五重塔や伽藍の建物が見え出した、しかし、こんどは入り口らしいのが判らない、車を止め、塀の周りをうろつきながら近所の人と思われる方に覗って、どうやら確認できた。

そこには「大日本仏法最初四天王寺」と刻した石柱が立ち、何故か、ここにかなり大きな石材の鳥居が建っている。 
鳥居」とは、普通神社の参道入口か参道に立てて在って、神域を示す一種の門であろう、しかるに神社でなく寺院に鳥居とは、些か不可解な気もするが・・?。
尤も、近代になって神仏分離でお寺とお宮は別々の存在になってはいるが、それ以前は神仏一体で、同居同座していても不思議ではなかった。そればかりか大きな寺院は鎮護のため、その一角に社宮を造営し鎮座させ、厄災を護除したものである。しかもその時は、方位を決めて鎮座させ、方位の邪(鬼門)を除けたものでもあった。


本来、鳥居とは神社などにおいて、神域と人間界が住む俗界を区画するもの(結界)であり、神域への入口を示すもので一種の「」である。その意味から神社に限ったものではなく、御陵や寺院にも建てられていることもあるという。 そういえば、インド仏教の様式や中国の寺仏にも、形や造りは異なっているが鳥居や門はあった。 それでも日本では、一般的には神社を象徴するものとして捉えている。 

四天王寺の石の大鳥居は珍しく、13世紀末に造られた日本最古の石造りの大鳥居の一つとされていて、しかも、日本三大鳥居の一つである。 
因みに、日本三鳥居は、吉野・金峯山寺の銅の鳥居(かねのとりい:重要文化財)、安芸の宮島、厳島神社の朱丹の木の大鳥居(重要文化財/世界遺産)と、こちらの大阪・四天王寺の石の鳥居である。 
気がつけば銅と木と石、即ち、金属と木製と石造りという取合せが面白い・・!。 
因みに、銅の鳥居の金峯山寺も寺院であった。

四天王寺は、鳥居脇の石柱に「大日本仏法最初四天王寺」としてあるように、やはり由緒ある大寺院であり、どこか誇高いことを感じさせくれる。 鳥居の奥に、巨大な総門か山門(西大門・極楽門)が天を覆うほどの大きさで存在感を示している。 そこをくぐって四天王寺の巨大な寺舎堂宇が確認できた。 立派な五重の塔が右に在った、コンクリート製である。


四天王寺は、遥かなる歴史をもつ日本でも最古の寺院であるが、しかし、不思議な事に、それらしい荘厳な雰囲気や古刹寺院のもつ格式のある信心、信仰といった崇高な参詣や名所といえる観光的要素による参拝の人々の賑わい等が全く無く感じられないのである。 
今はただ閑散としていて、これは大阪という大都会の真ん中に静かに鎮護しているためであろうか・・?、もっとも是は、訪れた時の小生の瞬時の私観ではあるが。
   
四天王寺は推古天皇の御世、西暦593年に造営が開始され、本来、聖徳太子が物部氏との戦いに勝利を祈願して創建されたものといわれる。
四天王とは、仏教における 四 人の守護神のことで源は、須弥山(古代インドの聖なる山)の頂上に住む帝釈天に仕え、その中腹でともに仏法を守護している神、護法神のことで、東の持国天、西の広目天、南の増長天、北の多聞天を指しているという。

この四神には仏法伝来の奈良期において、それぞれモデルがあるとされて持国天は蘇我馬子広目天は迹見赤檮(とみのいちい)、増長天は小野妹子多聞天は秦河勝(はたのかわかつ)といわれる。 

四人に共通しているのは、いずれも渡来系氏族であり、迹見赤檮は太子の同族であり、秦氏は中国の秦氏で太子を軍事的、経済的に支え、小野妹子も中国系氏族の出身であること、蘇我氏は同じ渡来系でも百済王族の系統で朝鮮半島がルーツという。 いずれも聖徳太子を支えた一族であったことである。

渡来人は、いずれも九州の地から上陸し、九州王朝と融合したと考えられる。 
この時期は未だ正式には仏教は日本には定着してないが、渡来人に依ってそれなりの仏式による寺院が建立されていたと思われ、その後、仏教が伝来、定着するに及んで、太子は「四天王寺」として九州の地から、ここ浪速の地へ移築したと考えられるという。

四天王寺縁起』には、インドの四天王になぞらえて「四箇院の制」を取り入れ、仏法の根本精神の道場、実践としての主な寺院である敬田院、悲田院、施楽院、療病院を配した。 信仰、学問の中心寺院である金堂の「敬田院」、 病者に薬を施す「施薬院」、病気の者を収容し、病気を癒す 「療病院」、身寄りのない者や年老いた者を収容する「悲田院」の四つの施仏堂や、他に五重塔、聖徳太子ゆかりの太子堂など建立するとある。 


四天王寺は、聖徳太子が建立したことは先に記したが、年代は飛鳥時代の推古天皇期の西暦593年であり、奈良・斑鳩の法隆寺(創建607年)より更に古いという。 
飛鳥時代とは、一般に奈良盆地南部の飛鳥地方を都とした推古朝前後の時代のこと。推古天皇を中心に、仏教渡来から平城遷都(奈良期)まで広く含めていたが、今では政治史や文化史でも6世紀末から7世紀前半までとするのが普通で推古時代ともいうらしい。

仏教伝来は538年、百済(当時、古代の朝鮮半島の国名)からもたらされたという。
仏教伝来以来の一時期、仏教は蘇我氏(飛鳥時代の有力豪族。崇仏派で物部氏と対立。
孫の入鹿まで中央で勢力を張り、大化の改新直前に本家は滅びる)と物部氏(飛鳥時代の有力な軍事氏族で、日本に伝来した仏教に対しては強硬な排仏派である。蘇我氏と対立して敗れる)の争いで停滞していたが、聖徳太子が出現するに及んで仏教を世に知らしめ、布教するために四天王寺の先ず金堂・敬田院を建立したという。 

隆盛時の大寺は、境内には大小40余の伽藍堂宇が建ち並んでいたという。 
これも、現在の境内とは比較に成らないほどの、はるかなる広大な敷地で各々の寺院が点在していたものと言われる。

しかし、さしもの栄華を誇った由緒ある古刹寺院も、幾多の戦乱の中でその殆どが破壊され、焼かれ、消失してしまっていた。 ただ、現在重文指定の建造物が、ほんの僅かに残っているともいう。
今の建物は昭和30年後半、建造したもので五重塔をはじめ、金堂、講堂、太子堂など塀囲に囲まれ、当時の飛鳥時代の様式で再建されているという。 しかし惜しむらくは、これら建築物は日本古来の木造ではなく、コンクリート造りであった。 
今は、それらの建物は都会の中の粉塵にまみれて、ただ静かに時の移ろいを見つめるだけであるが。 尚、歴史の厳然たる事実として、堂々と存在しなくてはならないのである。


次回、「四天王寺の宗派、ほか」






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