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2017-01-17(Tue)

平成日本紀行(171) 宇佐 「宇佐神宮・参道界隈」





 平成日本紀行(171) 宇佐 「宇佐神宮・参道界隈」   、





http://pds.exblog.jp/pds/1/200703/06/06/f0112506_16242225.jpg
宇佐神宮・参道鳥居






旅の記録;「日本一周」へリンクします

全国八幡宮の総元締・「宇佐八幡宮」は、国東半島・六郷満山仏教の源流でもあった・・、

宇佐I・Cから案内板に従って「宇佐神宮」へむかう。 
ナビで確認しながら至近に来ているようではあるが町並みは全くの普通で、特に社寺町といった重々しさは感じられない。 
ほぼ10号線に面して、平坦な地に忽然とその(おやしろ)が姿を現した。

先ず、巨大な駐車場が目に入る。 その横に並んで、初めて門前町らしいお土産横丁が店を並べている。 
土産横丁が途切れたところから、いよいよ大鳥居をくぐり境内に入る。とはいってもこの大鳥居は外境内(第一の鳥居)の門である。 

こちらの一角には、何故か古きよき時代の・・?、蒸気機関車が陳列されている。 
この機関車は明治24年にドイツでが製造され、宇佐参宮線の主役となっていたらしいが、昭和40年8月に廃線、廃止になているという。

道なりに右へ曲がると境内を取り巻くように、清流・寄藻川(よりもがわ)が流れる。宇佐神宮の神域を流れる川で、末端は周防灘に注いでいる。 
朱色の欄干に、僅かに弧を模(かたどる)った「神橋」を渡ると、第二の鳥居がある。

大きさ、形状とも第一の鳥居と殆ど同じであるが、宇佐の鳥居の特徴は「八幡造り」といって、上部両端が湾曲して天に跳ね上がっているとこであろう。 
これは伊勢神宮の水平でシンプルなのに比して、こちらは重々しさを感じる。 
気が付くと普通の神社にある、社名を刻んだ額名がない、それだけ、古式を表しているともいわれる。

鳥居の手前右手に、ちんまりした朱色の黒男神社(くろおじんじゃ)がある。 
御祭神は武内宿祢命(タケノウチスクネノミコト)で、この神子は景行天皇(第12代天皇・日本武尊ヤマトタケルの父君)から仁徳天皇(第16代天皇:名前の通り仁徳であったらしい)の五代の天皇に240余年もの間、大臣参謀として仕えたと伝えられ、数多くの功労と忠誠を尽くされたとされる。
ここ宇佐神宮・摂社として御祀りされて、八幡大神(宇佐神宮の本来の名称)に御奉仕された神として祭り古くから大鳥居の外に鎮座し、大神をお護りしているという。


鬱蒼と茂る緑の大木・イチイガシに覆われた参道が長々と延びている。 
右に、日本三沢の池の一つ、「初沢の池」(奈良の猿沢の池、京都の広沢の池と共に古くから有名)を巡って宝物会館、参集殿が並び、神宮庁・斎館と社務の館が並ぶ。 

この先右方向に、西参道と呼ばれる立派な参道が延びていて、寄藻川には神橋・「呉橋」という朱塗りの優雅な宮風の屋根付きの橋が架かる。
こちらは、嘗ての勅使街道の一部であり、国家神としての八幡神に対して、朝廷より派遣された「宇佐使い」と称される勅使が通る専用の道橋だったらしい。

表参道は更に、手水舎、本社・応神天皇の御子神を祀る春宮、須佐乃男尊(スサノオ)を祀る八坂宮などの各末社があり、神聖さをいやがうえにもかきたてる。 

この西側一帯は昔の神宮寺である「弥勒寺」の金堂や講堂の旧蹟があったところで、神宮寺・弥勒寺は、聖武天皇の勅願寺であって、宇佐神宮とともに古い由緒を持っているが、江戸時代末期から廃寺となり、今は旧蹟だけが残っているという。
通称の神宮寺とは、平安初期の日本において、神仏習合思想に基づき神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂のことで、寺院の中で仏が仮の姿となって神(権現)を祀る神社における仏式行方が営まれるようになった。


国東・六郷満山について・・、
宇佐神の神宮寺である「弥勒寺」の創建により、平安時代には宇佐地方にも国東(くにさき:大分県の西側に突き出た半島)を中心としたの「六郷満山」といはれる天台密教の仏教文化が隆盛を誇り栄華を見た。 
国東・六郷満山仏教の源流は宇佐八幡宮であり、宇佐に発生した「本地垂迹」(ほんじすいじゃく)の思想が神仏習合を醸成し、六郷満山全域に権現(権化・仏が化身して日本の神として現れること)信仰を発展せしめた。

国東半島は、神と仏が複雑に交錯する独得の文化が根付いた地であり、古くは宇佐神宮の神領地で、神宮の神の化身である仁聞菩薩(にんもんぼさつ:実在の人物とする説もあるが、宇佐八幡神「比売大神・ヒメノオオカミ」そのものを人格化したものであるという説が有力である)が開いたとされる寺院が数多く点在し、広く信仰を集めてきた。 
これらの寺を総称して六郷満山といい、現在でも「仏の里」と言われる国東半島の霊場は、宇佐神宮と33ヶ所の札所で構成され、半島一帯に数多くの古刹、名刹、社宮が残り、参詣者、観光客の来訪者が絶えない。 
又、この霊場の特徴は、国東塔に代表される石造文化財が多く残されていて、石像や石塔を特長とする文化が花開いたとする。 
寺院の山門に立つ仁王像も石造りが多くあり、素朴でダイナミックな造形はどこか日本離れした面影を感じさせるともいわれる。

小生H・P「六郷満山と宇佐神宮」;  
http://www.geocities.jp/orimasa2001/ks08-5.htm




門前の賑わいに比べて、境内は参拝者の姿もまばらで、シーンと静まり返り神域と言う雰囲気を醸し出している。 
それにしても広い境内、長い参道である、下宮(摂社 大神祖神社・おおがそじんじゃ)が見えてる辺りから左の方へ進むと、ようやく本殿に到着したようである。 

老松に囲まれた朱塗りの社殿は「八幡造り」と言われる代表的な建物で、荘厳華麗と言う表現がぴったり当てはまる。 
国宝になっているだけあって、その立派さには目を見張るのみである。


本殿は三つの社殿から成っていて、向かって左より一之御殿、二之御殿、三之御殿といい、参拝の順序も建物順に行い、拝礼は「二拝四拍手一拝」にて行うとある。 
小生も神妙な面持ちで、小銭を振舞いながら作法に則り参拝を行った。


神社参拝については一通りの作法があるので、ここで略儀ながら記しておきたい。
正参道を進み神域の入り口鳥居に到着、くぐる前にかるく一礼する。 
参道では真ん中を避け、左端を歩くようにするらしく。 これは参道の真ん中は「正中」と言いって、神様の通り道だという。 
神域にある水が湧き出ている小屋、これを「手水舎」と言い、どこの神社にもあるはずで、ここで身を清める。 
作法としては左手、右手の順で、次に左手で口をゆすぐとされる。 
社殿の前では、鳴り物が有るときは鳴らし、賽銭箱に入れて「二拝二拍手一拝」の作法で参拝する。 
この「二拝二拍手一拝」の作法が一般的な作法とされるが、神社によって異なる場合があり、代表的な例ですが出雲大社で二拝四拍手一拝が作法とされ、ここ宇佐神宮も同様である。 
願掛けなど神妙に参拝の場合は、時に自分の住所・氏名を名乗ると良いともいう。


次回も「宇佐神宮」、

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九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
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2017-01-16(Mon)

平成日本紀行(170) 安心院 「一柱騰宮・妻垣神社」 





 平成日本紀行(170) 安心院 「一柱騰宮・妻垣神社」   、





写真:一柱騰宮の案内標柱




「安心院」と書いて“あじむ”と読む、この地は「宇佐」の下院でもある・・、

津久見の町外れから高速道が繋がっている。 近年繋がったと見えて、真新しい「東九州道」であった。 
その高速道から一気に「宇佐」まで走ることにした。

大分の町並みを右に望み、更に別府の町並みが遥か下方に見えている。 
別府湾S・Aで小休止をとったが、このS・Aは風光雄大なところで別府市街から別府湾が一望の下である。 
更に、あの懐かしい鉄輪温泉の湯煙がそちこちから漂い、反対側からは明礬温泉の特異な地形が見て取れる。 
ほのかに硫黄の香がするようだが、きっと、そこから漂ってくるのだろう・・?。


日出JCTより安心院、更に宇佐に至る。 
ところで、安心院と書いて「あんしんいん」ではなく「あじむ」と読む。 
大昔は、この辺りは葦が生えてる湿性盆地であったらしく、ここから葦が生える、あしうむ、「あじむ」に変じたという。 だが、どうも納得できない読みと語字である。 
発音からすると渡来語のような気もする、北に位置する、あの八幡様の根源・「宇佐八幡」は渡来の守り神とも言うし、その南側に隠れた様に位置するのが安心院である。 
他に仏教的意味合いの読みではなかったか・・?、尤も仏教そのものが渡来の物であったが・・。


ところで、安心院は豊後国と豊前国の境にある町で、古来、北の隣町・宇佐との関わり合いが深い。
特に、八幡信仰の総本社・宇佐八幡(宇佐神宮)とは関係が深く、宇佐神宮の八摂社の一社である「妻垣神社」が鎮座している。

安心院の中心街から南へ3kmほど、安心院盆地にお椀を伏したような端正な小山・妻垣山が聳える。 
この山裾に、古社とされる妻垣神社が鎮座している。

県道50号線沿いの神社の入口には「一柱騰宮・妻垣神社」と記された大きな案内標柱も建っている。 
一柱騰宮”とは、地元の人は“いっちゅうとうぐうさん”と称しているようだが、正式(古式)には「あしひとつあがりのみや」と、ゆかしい読み方らしく、このことは古代歴史書・日本書紀に記されているらしい。 


日本書紀の「神代」の記載の一項には・・、
日向(美々津)から大和を目指して東征する神武天皇が、先ず最初に寄ったのが筑紫の国の宇佐の地であり、天皇は、一帯を治めている菟狭(宇佐)津彦(ウサツヒコ)と菟狭(宇佐)津媛(ウサツヒメ)の兄妹達とお会いになり、この時、「一柱騰宮」を造って天皇を饗応したとある。 

この「一柱騰宮」があったのが、安心院の「妻垣」の地であると言い伝えられていて、神代の昔から祭祀されていた伝説の宮といわれる。 
又この時、神武天皇は妻垣山に、母である玉依姫(比大神)の霊を祀る廟を造営し、侍臣の天種子命(アマノタネコノミコト・神武天皇の侍臣)に廟の守護を命じて東征の途についたという。 


案内標柱の奥には鳥居そして参道石段が連ねて、古社らしい厳かな雰囲気が漂い、その頂上に燦然と朱塗りの神門そして流れ屋造りの本殿が鎮座している。 
本殿横には「磐座」への案内板があり、そして社殿の正面には標高241メートルの妻垣山(ともかきやま・「共鑰山」とも書く)が控えている。 

その山頂直下に、石の囲いが施された苔むした巨岩が祀られていて、これが「磐座」であり、“いわくら”と読むらしい。 
巨岩信仰の一つであろう、神秘的な雰囲気が漂っていて、この磐座が一柱騰宮の奥宮とされている。 

ここには案内板もあって、『 共鑰山の院(御神山)の謂われ、・・比大神(神武天皇御母、玉依姫)の御在所(院)である。・・玉依姫が「安楽の御心」となられた故に、ここは共鑰山の「ご神体の相当する」場所である。従って、「安心院」の名所は、玉依姫が、この磐座(いわくら)の院の内において「安心」された事に由来する訳である。  妻垣神社 』、と記されてある。 

要約すると、「御神山(共鑰山=妻垣山)は、玉依姫命が降臨された御在所であり、この院の内において玉依姫命と共に利生(りしょう・仏用語:仏が衆生に御利益に叶うこと)についての語らいをされた。つまり、この磐座は、妻垣山の御神体に相当する。安心院の名前の由来も、玉依姫命がこの磐座で安心されたから」ということになる。

「磐座」は、原始信仰という形で聖地とされ、古代より現在まで引き継がれ、残されているものであろう。 
つまり、現在の妻垣神社は、上社・下社の二社からなっていて、山宮・里宮とも呼ばれる。 

山宮とされる山中にある「磐座」は、神の依代として古代より奉祀していたものだが、(元より古代は社殿を持たない)、時代が下り麓の村里が発展するにつれて、身近な山麓に勧請して建てたのが社殿を有する妻垣神社であり、里宮とされている。


妻垣神社の祭神は、主祭神を比大神比売大神と同じ、玉依姫命・・?)とし、相神を応神天皇(八幡大神)とその母君・神功皇后であり、これは宇佐神宮の祭神と全く同じである。 
「妻垣神社由緒記」には、『神武天皇東征の砌(みぎり・とき、おり、ころ、時節)、宇佐国造の祖菟狭津彦(うさつひこ)此ノ処ニ宮殿を建立、奉饗シ旧跡デ、当時、天皇、天種子命ヲ以テ比大神ヲ祭ラセ給ウ。当社ハ比大神ヲ祭ッテ八幡宮ト号シ云々』、と記され、つまり、比(ひめ)大神が八幡神であると伝えている。

「比大神」については、次項の「宇佐」でチョッと詳しく述べるが・・、
比神(ヒメノカミ)は、神道の神で、神社の祭神を示すときには、並んで比売神とも書かれるともいう。
これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神の総称を指すものともされている。 最も有名な比神は、八幡社の比大神である。 
この比大神は宗像三女神、又は三女神の母后ともされ、三女神の末姫が三人の男子を生み、それぞれ成人すると長男は伊予国へ、次男は土佐国へ、そして末っ子の「ウサヒコ」は母とともに残って宇佐の国造りを始めると言う伝説が残されている。 

宗像三姫の末姫は「イチキシマ姫」(弁天様で知られる)といい、邪馬台国の女王・卑弥呼と言う説もある。
つまり、宇佐八幡宮の祭神・比大神とは邪馬台国の女王・卑弥呼なのでは・・、という説である。


ところで、「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん・中国の正史・「三国志」の中の「魏書」に書かれている日本に関する条項)によると、邪馬台国(昔の日本)の中心は大分県中津市から宇佐市にかけての一帯に位置していたという表記がある。(豊前説)

邪馬台国の女王・卑弥呼(ヒメコと訓む)は、宇佐神宮の比売(ヒメ)大神であり、宇佐神宮の亀山の地が卑弥呼の墓であるとも言われる。
更に、卑弥呼(ヒメコ)=ヒメ大神=天照大神(アマテラスオオカミ)であるという説もある。 
いずれにしても、神代よりまします比大神は、かくと断定され得ない神ともされている。


妻垣神社は、元より八幡信仰の総本社・宇佐神宮とかかわりが深く、「宇佐神宮行幸会八社」の一社で境外摂社とされている。 
大神(邪馬台国の女王卑弥呼ともいう)の降臨の宇佐島はこの妻垣山であり、「魏志倭人伝」に記された邪馬台国はこの安心院であり、女王・卑弥呼の墓は妻垣神社の境内にある一柱騰宮であるという史家もいるほど謎のある神社でもある。

古代、九州の政治・経済・文化の中心は筑紫、日向にあり、ここから豊後の国東半島を経て瀬戸内海へむかう位置に「宇佐」がある。 
ここから潮流に乗って大阪にあがり、奈良の都へ出る古代の海の道があったことは、伝記・「神武天皇の東征」と一致する。 
一柱騰宮-妻垣神社-玉依姫-宇佐-神武天皇-大和という繋がりは、たとえ神武東征説話が架空だとしても、古代史の謎を解く鍵としては、歴家たちは興味津々であろう。


今は亡き推理作家の巨匠・松本清張は、代表作の一つと言える短編・『陸行水行』を残している。 
当時の歴史世評は邪馬台国のブームと言ってもよく、この時、清張自身も安心院の妻垣神社を訪れ、日本の古代史に興味を持ったとされている。

物語は、『東京の大学で歴史科の講師をしている私は、「宇佐の研究」のため安心院の妻垣神社へやって来る・・、』から始まり・・、宇佐神宮が最初のテーマとなり、安心院の風景があり、宇佐神宮の奥宮とされる妻垣神社のことが描写されている。 

そして、耶馬台国はどこにあったか・・?、など、古代の旅路を自ら辿りながらスリラー風に描かれている。


次回は、宇佐・ 宇佐神宮 

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2017-01-15(Sun)

平成日本紀行(169) 津久見 「大友宗麟」





 平成日本紀行(169) 津久見 「大友宗麟」   、





 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/14/Otomo-Sorin_statue_Tsukumi.jpg
津久見駅の大友宗麟像





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津久見は、大友宗麟の最後の居住地であり、終焉の地でもあった

向かう道路は番匠大橋で国道10号線と別れ、佐伯市内は海岸沿いの国道217号線となっている。
市内を去って程なく海岸の高台に至ったとき、佐伯の町並みが鮮やかに望下できた。
その正面遠方に元越山(もとごえざん・582m)であろうか、尖がり山が佐伯の町を見守っているようだ。 山は国木田独歩が佐伯に滞在中数回登り、あまりの景色の素晴らしさに感涙したという。

変化の激しい海岸道を行くうち、こちらは、ほぼ三角形の「彦岳」が眼前に迫る。 その裾野の海岸ギリギリのところを日豊線と国道が走っている。 
これらの地域は、山腹がいきなり海岸に落ち込んでいる険しいリヤス海岸で、所々、トンネルが貫通して無理やり通ってる感じでもある。 


程なく津久見へ達している。 市域としては比較的小さなエリアのようである。 
平成の大合併で自治体の数が少なくなり、その分、各自治エリアが広くなっているはずでがあるが、そんな中、津久見は隣の市町、臼杵市、上浦町に対して合併協議を申し入れているが、いずれも合併に対して、慎重な姿勢を変えていないという。


ところで、九州のなかでも大分県は、日本の「懐」というべき瀬戸内海や豊後水道に面し、台風の襲来や冬の厳しい季節風から守られているため、比較的温暖な気候に恵まれているという。 そういえば、九州地方が台風や梅雨時の大雨による被害が報告される中、大分地方は意外とニュースになっていないのに気が付く。 
津久見は、この温暖な気候と地形を利用してのミカンの栽培が盛んで、「津久見ミカン」は全国でも有名ブランドでもある。


その津久見は、戦国期には大友氏の支配下にあり、大友宗麟が津久見を最後の居住地と位置づけ、宗麟(1530~1587)終焉の地でもあるという。 

宗麟は、大友家の嫡男として豊後府内城に誕生、世に言う「大友二階崩れの変」(豊後大友家での御家騒動)で家督を継いだ。 
その後、毛利氏や秋月氏等との抗争を続けながら、その最盛期には豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後、日向と四国・伊予半国を支配し、強大な戦国大名となった。 

ところが、九州の関が原といわれる「耳川の戦い」の後、大友領内の各地で国人達の反乱が相次ぎ、島津義久などの侵攻もあって大友氏の領土は次々と侵食されていく。 
こんな中、天正14年(1586年)宗麟は中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見して支援を要請し、了解した秀吉は自ら兵を率いて九州征伐に出陣し、各地で島津軍を破っていく。 
だが宗麟自身は戦局が一気に好転していく中で病気に倒れ、豊後国・津久見で病死している。享年58歳であった。

九州征伐後、秀吉の計らいで長男・義統(よしむね)には豊後一国を安堵した。
その前に秀吉は宗麟に日向の地を与えようとしていたらしいが、宗麟自身は既に統治意欲を失っていて、これを辞退したという。 もしくは直前に死去したとされている。
だが、義統自身も朝鮮の役で秀吉に咎められ豊後を改易されている。
宗麟の墓は津久見市内と京都市北区の大徳寺にあり、さらに津久見市上宮本町の響流山・長泉寺に位牌がある。



キリシタン大名としても知られる大友宗麟である。
天文20年(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルの知己を得たことがキリスト教との最初の出会いであった。
その後、キリシタンに帰依(洗礼名をフランシスコ・ソウリン)し、キリスト教の領内での布教を許可したり、施設団をローマ教皇のもとに送ったりしている。 
宗麟がキリシタンになったのは、南蛮の優れた文化を取り入れるためともいわれる。 

一方では、領主・宗麟がキリシタンになったことから大友家臣団の宗教対立にも結びつき、これは宗麟の晩年に国人衆の蜂起という形で、不利な立場に置かれ国を滅ぼすことに成ったのは皮肉である。 

宗麟は信仰を深めるほど、キリスト教の「汝、殺すなかれ」という教えと、戦の上で殺生は避けられない戦国乱世との間で葛藤し続けたともいう。


次回は、安心院(あじむ)

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2017-01-14(Sat)

平成日本紀行(168) 佐伯 「豊後・佐伯の荘」





 平成日本紀行(168) 佐伯 「豊後・佐伯の荘」   .







写真:佐伯を代表する三の丸・櫓門の威容






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秀吉子飼の毛利高政が、現在の「佐伯」の基礎を形造った・・、

北川町の道の駅、「北川はゆま」で一寸遅い食事をとる。 
ところで「はゆま」とは早馬(はやうま)から転じたもので、江戸期に設けられた駅制度により、駅(宿場)に置かれた馬のことであるらしい。 
ここは現在は国道10号線であるが、この地に昔の駅舎が在ったかどうか定かでないが、九州南北を縦貫する昔からのメインルートでもあったのは確かである。 


レール列車に駅があるように、車の道路にも全国的に駅やサービス・ステーションがある。
この「道の駅」は、休憩のためのパーキングとしてはもちろん、人と町の交流ステーションであり、地域の文化や歴史、名所や特産品などを紹介、発信する情報交流の場としても魅力を発揮している。 

小生のように、全国を股にかけている旅の者にとっては実に重宝で、一宿一飯の地にもなっている。 
それを示すように、駅の一角に巨大な「駅馬」のモニュメントが建っている。


国道10号線は、宮崎県から大分県に入ったようである。 
緑鮮やかな山間の地で、起伏曲折は多いが、さすがに1級国道で造りは立派、時速にして60kmで悠々と走れている。

内陸部の宇目町、直川町の山地をようやく抜けて、佐伯の町に来たようである。
佐伯市は2005年(平成17年)3月、上浦町・弥生町・本匠村・宇目町・直川村・鶴見町・米水津村・蒲江町が合併し、新市制によって広範な佐伯市が発足している。
元より、この地域は南海部郡(みなみあまべぐん)といって、以前から「佐伯南郡」とも呼ばれ、強い結び付きを有しているらしい。 住民の日常社会生活圏は連帯意識をもち、経済圏もほぼ一体的であったという。
そのため、県内でも最も早く合併に向けて2000年12月には佐伯市・南海部郡5町3村任意合併協議会が設置され、2005年に合併したことから、面積が九州最大となる新たな佐伯市が誕生している。 
本来、各地域は支所や支庁と言われるところ、ここではユニークにも「振興局」という名称が付けられているという。


国道10号線が番匠川に達した辺りから沿岸域に出たようである。
この辺りの海岸線は、凡そ200kmに及ぶ「日豊海岸国定公園」にも指定されてるリアス式海岸が続く峻険な地である。
そんな中、佐伯市街は九州有数の清流・番匠川の豊かな水に恵まれた地域であり、市の中心地はその番匠川の河口に広がる小域な沖積平野に市域を形造っている。


番匠大橋を渡って右折し、川沿いを行くと間もなく佐伯市街に入ったようで、街路案内によって左折すると、いきなり巨大な城門が現れた。 
歩道には石畳を敷き詰め、クロマツの並木を造り、一部区間では電線を地下埋設していて、シットリとした白壁の土塀が続く。
旧藩政時代の武家屋敷の佇まいで歴史的景観、街路の調和が実に良い。

この地域、市内中心部の大手門跡から櫓門前を通り、城山の麓にそって養賢寺(ようけんじ)までの約700mは「歴史と文学の道」とされ、「日本の道100選」にも選ばれているという。 
養賢寺は大屋根を持つ本堂や風格のある庫裡、経蔵など初代藩主毛利高政をはじめ歴代藩主の菩提を弔う大寺院で文化遺産でもある。

風格のある城門は三の丸御殿の正門として、寛永14年に創建された櫓門(やぐらもん)といい、江戸時代の城郭建築を色濃く残す、歴史的建造物でもある。


佐伯は、元より海の幸、山の幸に恵まれた富める海辺の村であったが、江戸開府と同時に大いに発展してゆくことになる。 
佐伯藩初代藩主・毛利高政は慶長6年(1601年)、日隈城(ひのくまじょう:大分県日田市亀山町)から佐伯二万石を封ぜられ、番匠川下流の左岸に位置する八幡山(城山)に佐伯城を築き、番匠川の河口付近の干潟を埋め立てて城下町を整備している。 

町の南側を大きく曲がり込む番匠川の本流が外堀となり、支流や入江も自然の防御線となっている。 更に湿地帯が内堀のようにして残され、軍事的な防備だけでなく、防火線にもなっていると言われる。 

番匠川は、下流部を中心に古くから舟運が発達しており、江戸時代から舟運のための流路や水深を確保するための工事が行われていたという。 
江戸時代の船着き場は藩主専用の乗船場、藩士の乗船場、一般の乗船場などに分けられていて、渡し船や定期船も多く、河川に沿って街が賑わいを見せていたという。
櫓門を起点にして武家屋敷の町並みが尽きるところに、藩主・毛利家の菩提寺であった名刹、養賢寺があり、裏の高台にもある毛利家累代の御廟所も壮麗である。



この地方は平安期より「豊後・佐伯の荘」と称していた。
鎌倉期には豪族・佐伯氏が領主として豊後守護・大友氏に属し、番匠川の上流の標高224mの栂牟礼山(とがむれさん)の山上に山城を築き、ここを本拠としていた。 だが戦国期の九州騒乱で主家・大友氏が失脚にともない佐伯氏も改易、城を去っている。 

現在の佐伯城(城址)は慶長6年(1601)、豊後日田の日隈城から移封された毛利高政が11年の歳月を費やして、標高140mの八幡山に築城した山城である。 

高政は、豊臣秀吉子飼いの武将で、元々、森を姓としていた。 
ところが天正10年(1582年)秀吉による中国攻めの最中、本能寺の変で織田信長が凶刃に倒れたため、秀吉は中国の毛利氏と急遽和議を結んで、森高政を毛利方への人質とした。 
ところが高政は、当主・毛利輝元に気に入られて、「苗字の唱ふる所の同じきこそ怪しけれ、然るべくは我名字まいらせて、和君等と永く兄弟の契り結ばん」と輝元に言わしめたと藩史にもあり、以後、毛利姓を名乗るようになる。 

その後は、大坂城の築城や秀吉による朝鮮出兵の際の対馬に城を築くなど活躍、豊後・日田二万石の大名となって五層の天守(日隈城)を築くなど威勢を張った。 
しかし、毛利高政は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で石田三成方の西軍に組したため、徳川家康によって佐伯二万石へ転封された。 

以後、佐伯城は、毛利氏12代の永きに亘って居城となし、明治維新まで続くことになる。 
関ヶ原の合戦を経て佐伯藩に移封、築城と町づくりの礎を固めることになるが、江戸期、多くの藩が移封、転封される中、秀吉子飼いの大名でありながら、綿々と引き継がれ明治維新まで存続できたのは佐伯藩だけであるという。

尚、戦乱の時代も去った寛永14年(1637)、毛利氏三代目・高尚は八幡山麓の三の丸に居館を移したため、佐伯城は山城としての役目を終えることになる。 
そして、三の丸への登城門が現在の「櫓門」である。 
尚、佐伯城城郭は、明治の「廃城令」で城が取り壊されて現在は遺構のみが残っている。
山城へのルートは幾筋かあるが、いずれも昔の面影を残しており、山頂からは佐伯の町が一望できる。


次回は、「津久見


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2016-08-29(Mon)

平成日本紀行(136)竹田 「広瀬武夫」(Ⅱ)




九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)




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 平成日本紀行(136)竹田 「広瀬武夫」(Ⅱ)   




横須賀港の戦艦三笠と東郷平八郎像




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日本海海戦において、広瀬中佐に関しては後日談が有った・・! 、

日露戦争当時から、戦死したはずの杉野兵曹長の「生存説」が世間の噂として囁かれていた。 広瀬が探した杉野兵曹は公式には戦死とされているが、実際には存命していたという。 

知らせを受けた実家でも「そんな馬鹿げたことが・・、信じられません」と・・、既に仏壇には「護国院釈忠誠勇義居士」の法名が掲げてあった。 

新聞記者の会見によると、彼は旅順港口で人事不省に陥っていたが、ロシア人に助けられ近くの島で暮らしていたとされる。 
戦後一時、帰国を決意したが内地で自分が広瀬中佐と併せて軍神にされていることを伝え聞き、帰還を断念したという。 

広瀬武夫」はロシア公館付武官であるから、かれはロシア語の会話はもちろんトルストイをはじめロシア作家の作品を読破している。 
おまけに身長175の偉丈夫で美男子ときているからロシアの娘たちが騒がないわけがない、中でもとくに熱心だった女性が二人いたという。


広瀬が日本へ帰ってから二年後に日露戦争が勃発する。
恋人同士を無残に引き裂いた戦争は間もなく広瀬を死に至らしめる。
彼の戦死を知った女性は広瀬の生家へお悔やみ状を送ってきたのが残されているが、それはまるで恋文だという。 それほどまでに外国人女性に慕われていた広瀬は、死後「軍神」になったが、生前は生身の人間であり誇り高き日本男子だったのである。


竹田といい、高山といい山国育ちの広瀬がなぜ海軍軍人なのか・・?
その鍵は実は「坂本龍馬」にあるのではないかという有力な説がある。 

京都国立博物館の坂本龍馬関係資料のうち「有魂姓名録」の冒頭に勤王の志士達の名簿がある。 そのなかに中川藩・家中の「広瀬友之允」の名が載っていて、彼は広瀬武夫の父広瀬重武のことである。 
重武は天保7年生まれなので龍馬より一つ下で同世代であり、文久2年に脱藩したのも龍馬と共通している。

幕末騒乱期、京都・寺田屋に竜馬と共に倒幕謀議に参加するはずだったが、出発が遅れ参加できず、難を逃れたと言う説もある。 
「 維新は、寺田屋の一室から生まれたり 」と言われるように、寺田屋は明治維新のメインステージとなったところであり、文久2年(1862)討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」は有名である。
また、ここは坂本龍馬の定宿で、お龍(おりょう・後に竜馬と結婚)との恋の宿としても知られている。

文久3年頃、亀山社中(海運・貿易業を中心とした会社組織、結社でメンバーは龍馬と行動をともにした若者たちを中心に20数人)を興し、神戸海軍塾の創設に走り回っていた坂本龍馬が、広瀬重武を含む岡藩の志士らに、“これからの日本は海軍を起こすこと が急務である”ことを力説した。 
それに感化された広瀬重武は、山国育ちの息子・武夫を明治海軍に入隊させたのではとも言われている。


龍馬が暗殺されたのは1867年(慶応3年)、武夫が生まれたのは翌・1868年(明治元年)。
広瀬武夫は父親と龍馬の海軍精神を受け継ぎ、旅順港で戦死する運命もまた龍馬が与えたものと想像でき、共に国の為に殉じた」は共通する。

尚、武夫の兄の勝比古も海軍軍人で少将、勝比古の養子になった末人(すえと)は海軍中将までなっている。 
豊後竹田駅から岡城に向かうトンネルの手前に「広瀬神社」がある。


広瀬中佐』 尋常小学唱歌(大正元年12月)

轟く砲音(つつおと) 飛び来る弾丸
荒波洗う デッキの上に
闇を貫く 中佐の叫び
「杉野は何処 杉野は居(い)ずや」

今はとボートに 移れる中佐
飛来る弾丸に 忽ち失(う)せて
旅順港外 恨みぞ深き
軍神広瀬と その名残れど


次回は、「坂梨

  
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