四国の旅・高知県; 土佐の高知 「いごっそう・龍馬」 ,
桂浜に立つ龍馬銅像
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“いごっそう” 土佐の龍馬は、政治家より経済人を夢見ていた・・! 、
坂本龍馬は、天保6年(1835年)土佐国土佐郡上街本町一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(※1 下級武士 下記解説あり)坂本家の二男として生まれた。 青年時代江戸に出、千葉道場(千葉周作)で北辰一刀流を学んだ剣士でもある。
武市半平太(瑞山)卒いる
土佐勤王党(※2 下記解説有り)に参加し後、脱藩して
勝海舟に師事して海軍建設を計画し又、長州・木戸孝允、薩摩・西郷隆盛を説いて、慶応2年(1866年)薩長両藩の同盟協約を成功させる。
龍馬は、この薩長同盟の勢力に土佐藩を加え、これを背景とする
王政復古(天皇制)を考え、土佐藩の参政、後の藤象二郎を説き、立憲的な議会制度を基とする新政府の出現を期した。
主君・山内容堂(15代土佐藩主)は、後藤の提案を受け入れて慶応3年将軍徳川慶喜に大政奉還を建白した。 将軍も時勢を察し、京・二条城において、政権返上を朝廷に上奏した。
龍馬は、これを喜び新政府創立に奔走したが、11月15日京都河原町「
近江屋」で幕府方の刺客に襲われ、同志・
中岡慎太郎とともに凶刃に倒れた。
時に龍馬は33歳、慎太郎は30歳であった。
海援隊を組織し、海事貿易も行っていた竜馬が、もし殺されずに明治時代を生き抜いていたら、岩崎のかわりに坂本家が日本一の財閥になっていたのでは・・?とも云われる。
元々、竜馬は国内の政治家としての立身は望んでいないようで、ゆくゆくは外国貿易に見え置き経済人として望みがあったともいわれる。
それが大洋(外国、太平洋の先にはアメリカがある)に目を向けて建つ「
竜馬像」の姿であり、志であった。
※1 長宗我部時代、一領具足という半農半士の制度を制定する。
このことが上下関係のない自由で闊達な土佐人を生んだ。
山内一豊が入府してからは、山内侍(上士)と旧士との間に区分が生まれ、旧士は上士に差別され、侮蔑され、馬鹿にされた。
そのうっ憤は、自然と文武両道の錬磨に打ち込み、旧士達は長年の間に土佐の反骨精神を高め、幕末維新の立役者となる原動力を身に付けたのであった。
一般に土着の長宗我部時代の遺臣を郷士と称している。
※2 一藩勤王を唱え、攘夷に立ち上がるため、武市半平太(瑞山)が文久元年(1860年)8月に結成した結社。 坂本龍馬、中岡慎太郎といった面々も含め、190余名が加盟。そのメンバーのほとんどが郷士、下士、庄屋といった下士層で構成されている。武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎は土佐勤王党の四天王といわれた。
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