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2015-11-01(Sun)

四国の旅・高知県; 横浪半島 「宇佐港と万次郎」 





 四国の旅・高知県; 横浪半島 「宇佐港と万次郎」   、









高知の宇佐港とジョン万次郎






旅の記録;「日本一周」へリンクします
桂浜を後にして、海岸沿いの快適な県14、県23号線の通称「黒潮ビーチライン」を行く。 
海岸のコンビニで大洋を眺めながら、チョット遅い朝食を摂る。そこからは、わずかに孤形を帯びた宇佐漁港、朱色の宇佐大橋、そして横浪三里といわれる景勝地の横浪半島が右手に見えている。


紀州・和歌山の項でも述べたが、宇佐漁港は「鰹(かつお)の漁法」、「鰹節」の発祥の地である。 

元々、紀州の印南町が鰹漁と鰹の一本釣りの発祥地といわれる。
かつては廻船問屋や漁船の基地として知られ、印南の漁夫たちは日本でもトップクラスの鰹漁の技術を持っていた。 

ところが鰹船団で財をなした豪家、角屋甚三郎が、ある事件をきっかけに船団を率いて、土佐へ移ってしまったのである。 その地が「宇佐」であった。



カツオの漁法とともに、鰹節(熊野節)の製法を土佐国に伝えたのを、きっかけに土佐藩は鰹節を藩の貿易品にしようと考え、その製法を積極的に取り入れた。 

息子・甚太郎は焙乾(燻乾)の創始者でもあり、江戸中期の頃までに大きな改良が行われ、煮熟・焙乾・カビ付けに取り組み、これが改良節、土佐かつお節と呼ばれている。 
更に、宇佐在住の印南の職人が伊豆や薩摩に招かれ、作られたのが伊豆節、薩摩節といわれる。 
明治時代に入って、伊豆節が目覚しい発展を遂げ、土佐節・薩摩節・伊豆節が三大名産品と称されるようになった。



日本沿岸で多量に捕れるカツオは干しカツオにし、さらに焙乾法の出現により鰹節に引き継がれ、日本人の保存用タンパク源、調味料として不動の地位を確立していくのである。

宇佐漁港は、現在、クジラ・ウォッチングの出航地として人気があり、また幕末、ジョン万次郎(中浜万次郎)が船出したという港でも知られる。 



万次郎は、土佐中浜に生まれ、その数奇な運命と独自の才覚によって、近代日本の夜明けともいえる時代に日米の架け橋となる幾多の業績を残した。 
あの坂本竜馬にも多大に影響与えたという。

「ジョン」という姓は、捕鯨船・ジョン-ハウランド号に由来するという。


万治郎は故郷へ錦を飾った後、地元の名を付けて、中浜万治郎(1827~1898)と名のった。アメリカで学んだ英語力を活かし、威臨丸に通訳として乗り込み、勝海舟、福沢諭吉らとともにアメリカに派遣されるなど活躍、維新後は学校の教師など、日本の英語教育の確立に貢献する。


次回、「朝青竜の青竜寺」 
  
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2015-10-27(Tue)

四国の旅・高知県; 土佐の高知 「浦戸湾」 





 四国の旅・高知県; 土佐の高知 「浦戸湾」  ,




(出典; http://mac-factory.com/?attachment_id=1223 から借用)





「日本一周の旅の記録」へリンクします
  

『 みよやみよ みな月のみの 桂浜 
          海のおもより いづる月かげ
 』 

土佐出身の大町桂月が詠う。


裏山の浦戸城趾は戦国の昔、長宗我部元親の居城として四国統一の中心となったところである。

また、山頂には国民宿舎桂浜荘、坂本龍馬記念館がある。 


桂浜を望む龍頭岬の北側対岸は、浦戸湾口を跨ぐ巨大な浦戸大橋で結ばれ、種崎の岬に到っている。




歌でも知られる「浦戸湾」は、入江状になって高知港を形成している天然の良港であるが、現在の浦戸湾は広範囲に埋め立てられ、かなり縮小しているといわれる。 

だが、昔は高知の市街地を含んだ広大な湾域であり、流入河川も多く半汽水湖を形成して、魚の種類も多かったという。


「よさこい節」に言われる、、

『 言うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ
           潮吹く魚が泳ぎより
』 


回遊する土佐湾名物の鯨が浦戸湾に入り込んできて、暫しの休息をしながら,多くの餌魚を漁っていた。
こんな風景は、まんざら作り話しでもなさそうである。


次回は、宇佐、「横浪の道

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2015-10-27(Tue)

四国の旅・高知県; 土佐の高知 「桂浜と龍馬」 

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 四国の旅・高知県; 土佐の高知 「桂浜と龍馬」  ,





写真:土佐の高知の「桂浜」


桂浜から大洋を見据える「坂本竜馬像」



 
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一旦、はりまや橋の大交差点に戻り、今度は右折して県道34号線を、やや浦戸湾に沿いながら「桂浜」へ向かう。途中、「横浜」という地名に出会った。 
神奈川に住む小生にとっては懐かしい名前である。
 
えば、東日本を周遊している時、青森の下北半島の付け根部分にあたる所に「横浜町」というのが在った、たしか、日本一の菜の花の名所と記憶しているが。 
もっとも、横浜という名称はありふれた名で、浜の近辺なら何処にあってもふしぎではないが・・! 



横浜から瀬戸の住宅地を抜けると、突然、太平洋へぶち当たった。標識に従って、左折し、清々した海岸を行くと、間もなく高台の曲がりくねった道より大駐車場へ出た。

桂浜の駐車場で近くには、土産、物産の販売所がある。 
本日、土曜日であるが、朝まだ早いことから車や人影は殆ど無い。岬の先端の石段を下ると、箱庭のような桂浜の風景が目の前に広がった、土佐を代表する名勝・「桂浜」である。


大海原と青くこんもり突き出た岬(上龍頭岬)との配置景観が実に良く、ハートに響く・・!、満月の夜景を想像しながら「月の名所は桂浜・・」に納得である。 

砂浜に整備された遊歩道をゆく、高台の竜頭岬には土佐を代表する志士「坂本龍馬像」が遥か太平洋を望んで、堂々と建つ。




1866年(慶応2)、京都・薩摩藩邸、奥座敷の一室に長州藩代表の桂小五郎(木戸孝允)が控える。 
別室に薩摩藩代表小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通が着座して居る。 
竜馬が駆け込んで、西郷に向かって「おはん等、未だ思案しちょるんか、くだらん意地でこの同盟を、この日本を、だめにしてしまうんか・・!!」 大きな目を正視していた西郷は、一時して「分かりもした・・」と言って立ち上がり、別室の桂に歩み寄り、深く頭をたれて「よろしゅう、おたの申す・・」と、遂に、ここに坂本竜馬の努力によって薩長同盟が結ばれ、これが歴史の流れの大きな分岐点となり、倒幕・維新革命への大きな流れを起こすことになる。

後に竜馬は、西郷のことを「西郷は馬鹿だ!!しかし、馬鹿さの幅が分からない、小さく叩けば小さく響く。大きく叩けば大きく響く・・」と言わしめた。



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2015-10-26(Mon)

四国の旅・高知県; 土佐の高知 「いごっそう・龍馬」 





 四国の旅・高知県; 土佐の高知 「いごっそう・龍馬」  ,








桂浜に立つ龍馬銅像



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“いごっそう” 土佐の龍馬は、政治家より経済人を夢見ていた・・! 、

坂本龍馬は、天保6年(1835年)土佐国土佐郡上街本町一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(※1 下級武士 下記解説あり)坂本家の二男として生まれた。 青年時代江戸に出、千葉道場(千葉周作)で北辰一刀流を学んだ剣士でもある。

武市半平太(瑞山)卒いる土佐勤王党(※2 下記解説有り)に参加し後、脱藩して勝海舟に師事して海軍建設を計画し又、長州・木戸孝允、薩摩・西郷隆盛を説いて、慶応2年(1866年)薩長両藩の同盟協約を成功させる。


龍馬は、この薩長同盟の勢力に土佐藩を加え、これを背景とする王政復古(天皇制)を考え、土佐藩の参政、後の藤象二郎を説き、立憲的な議会制度を基とする新政府の出現を期した。

主君・山内容堂(15代土佐藩主)は、後藤の提案を受け入れて慶応3年将軍徳川慶喜に大政奉還を建白した。 将軍も時勢を察し、京・二条城において、政権返上を朝廷に上奏した。 

龍馬は、これを喜び新政府創立に奔走したが、11月15日京都河原町「近江屋」で幕府方の刺客に襲われ、同志・中岡慎太郎とともに凶刃に倒れた。
時に龍馬は33歳、慎太郎は30歳であった。



海援隊を組織し、海事貿易も行っていた竜馬が、もし殺されずに明治時代を生き抜いていたら、岩崎のかわりに坂本家が日本一の財閥になっていたのでは・・?とも云われる。
元々、竜馬は国内の政治家としての立身は望んでいないようで、ゆくゆくは外国貿易に見え置き経済人として望みがあったともいわれる。 
それが大洋(外国、太平洋の先にはアメリカがある)に目を向けて建つ「竜馬像」の姿であり、志であった。





※1 長宗我部時代、一領具足という半農半士の制度を制定する。
このことが上下関係のない自由で闊達な土佐人を生んだ。

山内一豊が入府してからは、山内侍(上士)と旧士との間に区分が生まれ、旧士は上士に差別され、侮蔑され、馬鹿にされた。 
そのうっ憤は、自然と文武両道の錬磨に打ち込み、旧士達は長年の間に土佐の反骨精神を高め、幕末維新の立役者となる原動力を身に付けたのであった。
一般に土着の長宗我部時代の遺臣を郷士と称している。

※2 一藩勤王を唱え、攘夷に立ち上がるため、武市半平太(瑞山)が文久元年(1860年)8月に結成した結社。 坂本龍馬、中岡慎太郎といった面々も含め、190余名が加盟。そのメンバーのほとんどが郷士、下士、庄屋といった下士層で構成されている。武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎は土佐勤王党の四天王といわれた。
 

次回、次回も龍馬


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2015-10-25(Sun)

四国の旅・高知県; 土佐高知 「長宗我部氏」 




 四国の旅・高知県; 土佐高知 「長宗我部氏」   、





長宗我部元親と浦戸城址の碑




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戦国期、土佐及び四国一帯を治めていた長宗我部氏の居城は、現在の桂浜に沿った高台にあたる「浦戸城」であった。

往時は、ここが土佐の中心であり、地元で四国土佐の人物はといえば坂本龍馬を指すと思うが、地元の人は、実は「長宗我部元親」(ちょうそかべ もとちか)を指す場合が多いと言う。(理由は後ほど・・、) 



長曽我部氏は、泰氏の後裔と称している。秦氏の一族でとりわけ著名な秦河勝は、聖徳太子の信頼に応えて多大な功績を挙げ、恩賞として信濃国を賜っている、泰氏は信濃に住して豪族に成長していった。

平安末期の「保元の乱」、更には、鎌倉初期に起った「承久の乱」に、幕府方に味方した信濃の秦氏の子孫・秦能俊がその功により土佐国の地頭となり、長曽我部郷に移ったとする説が有力とされる。

長宗我部氏の初代とされる秦能俊が土佐に入り、はじめて居住したのは長岡郡宗部郷(宗我部郷)であり、能俊は地名をとって宗我部氏を称したが、長岡郡の一字をとって「長宗我部」と名乗ったという。 



長宗我部能俊の子孫は、官領・細川氏(土佐の荘園主)の庇護のもとに次第に勢力を拡大、戦国時代には大雄・長宗我部元親を輩出する。

元親は土佐を統一し、勢いで四国制覇を成し遂げる。 
しかし、中央で制覇を確実なものとした秀吉や家康に刃向かったため、次第に没落していく。 
江戸期には、新興の山内武士団により圧迫されながらも、長宗我部の残存武士団は一領具足という半農民などに身分を変え、後に郷士となって幕末に坂本竜馬などの志士を生み、明治の革命を起こす原動力にもなる。 

このあたりが歴史の妙味でもあるが。


次回、龍馬
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