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2015-12-15(Tue)

四国の旅・愛媛県: 伊予波方 「村上水軍」





 四国の旅・愛媛県: 伊予波方 「村上水軍」   、






http://blog-imgs-24.fc2.com/t/a/k/takakei7/DSC_0150_convert_20091004211155.jpg



今治市村上水軍博物館




来島海峡大橋




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来島海峡は海賊大将・村上水軍の発祥地

大西町から波方町の半島付け根を横断して今治に入り、程なく今治・尾道ルートと言われる「瀬戸内しまなみ海道」へ通ずる西瀬戸道と交差する。
近くに今治I・Cがあり、中国・山陽地方の尾道へ抜けることが出来る。
小生は四国一周をするつもりなので、当然、このまま国道196を行くことになる。 

この時、偶然にも「大三島」において山火事が発生している。 とカーラジオが報じていた。
大三島は、この瀬戸内しまなみ海道の中間にあたり、大小の島が連なる内の最大の島である。
「瀬戸内しまなみ海道」(本四連絡道路・今治―尾道ルート、西瀬戸自動車道)は、愛媛・今治市と広島・尾道市間を来島海峡大橋や多々羅大橋など十本の橋で結ぶ、文字通りの「海の街道」(全長約六十キロ)である。

すべての橋が徒歩や自転車で渡れるといい、珍しいのは四国側玄関の今治市にある世界初の三連つり橋の来島海峡大橋(愛称・くるくる橋ともいうらしい)といわれる。 
急流で名高い来島海峡は「海の大名」といわれ、室町から戦国時代にかけて瀬戸内海で活躍した「村上水軍」ゆかりの地でもある。


瀬戸内海は太古から、九州はむろん大陸や朝鮮半島から畿内に向けてのルートとして、重要な交通の要所である。 
然るに、この内海を堰堤のように大島、伯方・大三島、生口・因島などが阻んでいる。
海流や船舶はこれら島々の間を縫うように流れるのであるが、特に、南端の来島海峡は瀬戸内海の主要航路のようで、大小の主な船舶はこの航路を通過するようになる。

この今治と大島(吉海町)の間にある来島海峡は鳥羽一郎の海の演歌でも唄われているが、「内海では一に来島、二に鳴門、三にくだって馬関瀬戸」と詠われたように、鳴門海峡、関門海峡とともに日本三大急潮として知られる。

潮流が10ノット(時速18.52キロ、1時間に1海里〔1852メートル〕)にもなる所もあり、特に動力の無い時代には、船を操作するのに特殊な技術が必要であった。 
この辺りの海難の地が、往時、海賊を発生させる要因になったのかみしれない、

海賊」とは、陸の山賊と同じで、武装した略奪者集団というものであり、「海賊」という言葉のイメージは恐らく昔も今もこれと変わることはない。 海賊はその出現場所・時代によりさまざまな呼称、形態がある。 「倭寇」と呼ばれていた時代があった。 倭とは勿論、日本のことで、期間的には14世紀、16世紀の二度の波に分かれて中国・朝鮮の沿岸を襲い、それぞれ前期倭寇、後期倭寇といった。 

この中世以降の日本で活動した、交易を行う傍ら船舶や村への略奪、あるいは逆に金銭を取って船舶航行の警護を組織的に行った沿岸の国人、土豪の事を海賊衆と呼んだのである。実際には略奪というよりは帆別銭、警固料(通行税)の取り立てで生計を立てていた。 この頃の海賊衆には瀬戸内海の村上氏(村上水軍)や志摩半島の九鬼氏(戦国期に活躍した九鬼水軍)などが知られるのです。


次回は其の「村上水軍」


  
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2015-12-12(Sat)

四国の旅・愛媛県: 伊予松山 「霊場・石手寺」(Ⅱ)




 四国の旅・愛媛県: 伊予松山 「霊場・石手寺」(Ⅱ)   、




http://livedoor.blogimg.jp/canarywharf-redseals/imgs/7/0/70a7ed54.jpg

https://encrypted-tbn2.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcSjU64EgB_4SJ01YCighXYPAfhGxdaiYI2L1H75wKopdGFQTkie

http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/013/529/32/N000/000/017/123469795518116303357.JPG


http://www.beach.jp/_images/archive/d0109471ESQL3KRB2MS09MLFBQ874RFVKS4FG5KKHJ983SPHNQ4KBE4/large
マントラ洞内へ、

http://cluricaune.world.coocan.jp/nippon/2000-09-ehime/image/ishite-14.jpg
マントラ洞(怪しげな部分を代表するシロモノは「裏の顔、常ならざる陰の世界)



この寺は、聖武天皇(奈良初期)、伊予国司・「越智玉純」(おちたまずみ)が天皇の勅願を受け、鎮護国家の為に伽藍を創建して、はじめ「安養寺」として名を付けた古寺であったという。

寺院境域は66000平方メートルという広大な敷地を持つ。

奈良中期に、「衛門三郎」と弘法大師の縁起から「石手寺」と名を変えたという。 


この衛門三郎こそ、「元祖、四国巡礼者」であったとも云われる。 

ある日、伊予の住人「衛門三郎」が、托鉢(修行僧が、各戸で布施する米銭を鉄鉢で受けてまわること。
乞食・コツジキ)で訪れた大師に向って「帰れ、このくそ坊主」と悪行をなした。
すると忽ち一家は破滅的天罰が下り、その原因が托鉢の僧にあったことを知る。 
三郎は大師に一目会って懺悔すべく旅立ち、伊予から讃岐へ、更に阿波、土佐を経て大師の後を追い、四国の道を二十周して力尽き、息をひきとる間際、大師に会うことが出来たという。 

大師は懺悔を聞きながら手に石を握らせた。 
次の年、伊予国司、河野家に「左手に石を握った男子」が誕生し、安養寺の住職は「衛門三郎の再来」として、寺の名を「石手寺」と改めたという。 
衛門三郎の善行を聞いた人々が、四国を巡る遍路に出るようになったともいわれる。

遍路行者達は、古刹・名刹に巡拝し心を清め、更に、名湯道後で身体を洗い流して明日への活力としたのであろう。



『 西方を よそとは見まじ 安養の 
          寺に詣りて 受くる十楽
 』 御詠歌




石手寺の本堂前に展開する華麗な建築物は謂わば、大師の教えを貫く精神世界である。 

表の顔という人もいる。 

ところが、この石手寺は珍しく別な顔を持つもう一つの世界があるという。 
本堂裏手にある「マントラ洞」というのがそれで、怪しげな部分を代表するシロモノは「裏の顔、常ならざる陰の世界」とも云える世界を演出している。

先ず、入口は「曼荼羅」として木造の普通の門に相当する造りであるが、周辺の飾り物はイカにも奇妙な代物なのである。



曼荼羅とは、本質を有するものの意で、特に仏界では悟りの世界を象徴するものとされる。 この奥に洞窟があって異次元の空間が広がっている。
その洞窟も幾つかあって「都卒天洞」(とそつてんどう)、「地底マントラ」、「大仙窟」等の名称がついていて、これらは人間の苦しみ、人間のむごさ、人間の痛みなどの苦しい人生模様を現しているともいわれる。


本堂前の華麗な世界は、精神が昇華する願いを込めた世界であり、一種、願望と理想を描いているが、反面、裏の洞窟に広がる暗欝な世界は、現実的な不屈の精神界を表現しているようでもある。


この苦しみに負けず、生きるものは幸福へと進もう」とする不屈の呼びかけであろうか。

石手寺は、二つの世界が体験出来るのである・・!!。







  
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2015-12-11(Fri)

四国の旅・愛媛県: 伊予松山 「霊場・石手寺」 






 四国の旅・愛媛県: 伊予松山 「霊場・石手寺」   、





http://www.88shikokuhenro.jp/ehime/51ishiteji/img/map.gif









伊予随一の51番霊場・石手寺本堂と三重塔、其れにマントラ洞(入場門)





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『 伊予の秋 石手の寺の 香盤に 
       海のいろして 立つ煙かな
 』 与謝野晶子




小一時間、本館の由緒ある温泉に入浴し、施設、周辺を見学して退出した。

奥道後のNTT保養所「拓泉荘」へ戻り、宿の朝食を格別美味しく戴いて、改めて本日の行程へと出発する。

先ず、本館のすぐ近く、昨日も今朝も門前を通過しながら車中より一見しただけの第五十一番霊場・「石手寺」である。 
入り口に大きな御影石に刻印された石柱に「熊野山・石手寺」とあった。



小川に架かる小さな狐狸橋を渡ると両側に、未だ開店前の土産物屋などが軒を並べている。 

参道を進むと荘厳な堂々たる仁王門(国宝)が建ち、巨大な「わらじ」が通路の両脇に置かれてあり、その横に霊場巡りのお遍路さんであろうか、願掛けの小草鞋が多数吊るしてあった。

この門は鎌倉時代の造営で、両側内の仁王像・金剛力士像(阿ア形像、吽ン形像)は同時代の代表的彫刻家・運慶の作といわれ、これはもう完全に国宝クラスの像物である。 

門をくぐると右手に均整のとれた華麗な三重塔がそびえ、それと 並んで鐘楼が建っている。
この鐘楼前の歌碑(冒頭)は道後を訪れた時「与謝野晶子」が詠ったものという。 
正面一段高いところに緑に囲まれて本堂があり、並んで大師堂が建っていた。



今も尚、四国霊場第五十一番の札所では伊予地方随一の名刹として松山地方の大師信仰の中心であり霊験あらたかなところから、善男善女の参詣は後をたたないという。

建造物の大半は国宝、重要文化財となっており、四国霊場の中でも由緒ある寺の代表的な一つである。

又、小高い山の上に一際大きな弘法大師像が立つ、それは像体は中国を、顔はインドを向いているともいわれる。



地元出身の正岡子規もお堂の多さに・・、

『 石手寺や 何堂彼堂 弥勒堂 』 

と面白可笑しく詠んでいる。






  
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2015-12-10(Thu)

四国の旅・愛媛県: 伊予松山 「日露戦争と秋山兄弟」





  四国の旅・愛媛県: 伊予松山 「日露戦争と秋山兄弟」   ,







秋山好古(兄)と秋山真之(弟)



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明治期、日露戦争を勝利に導いた「秋山兄弟」

小生が数年前、病床において(大腸ガン)読破した司馬遼太郎の大著に「坂の上の雲」がある。 そしてその後NHKの特別番組でも放送されたことがありました。

物語は、明治期の日露戦争の名将・名参謀である秋山兄弟と歌人・正岡子規を軸に、四国・松山出身の三人の男達の友情と国家存亡の一大叙事詩である。 
日露戦争のおいてロシアの名高いコサック騎兵を破った秋山好古(あきやま・よしふる)、日本海海戦の参謀・秋山真之(あきやま・さねゆき)兄弟と文学の世界に巨大な足跡を遺した正岡子規を中心に、明治の群像を描いている。

この陸海軍に分かれた二人の兄弟が、まだ当時東洋の一小国であった日本を、亡国の悲運から救ったと言っても過言ではない。
弟の真之と子規とは、東京の下宿の一室で起居を共にした程の親交であった。


秋山兄弟は、松山藩士の子として松山市歩行町2丁目に生まれている。
兄・好古は日露戦争の「黒溝台の戦い」では30kmにも及ぶ最左翼を守備し、僅か八千の兵で十万の敵の攻撃を耐え抜き、日本陸軍を壊滅から救った。 
コサック騎馬隊は単銃なのに対し、好古の申し出によって日本陸軍で初めて機関砲(騎兵砲)が配備され、この戦いで大活躍をした。 

好古は、身だしなみには全く無頓着で、下着もろくに着替えず、天気の良い日にはよくシラミ退治をしていたという。 そして、「身辺、物事は単純明快でいい」が口癖であった。
しかし、時計の様な几帳面な面もあり、晩年、中学校の校長時代には毎日、馬で登校し、一日も欠勤や遅刻をせず、きっかり二十分前には出勤するので、沿道の人はその姿を見て時計の針を正した程であったという。 後の陸軍大将、勲一等章



弟・真之は正岡子規とは幼少時代よりの友人であり、上京した後も共立学校の同級生として交遊し、俳句や和歌なども学び、文学的才能にも秀でていたという。 
日本海海戦出撃の際の報告電報の一節に、『 本日天気晴朗ナレドモ浪高シ 』や、Z旗(国際信号旗の一つ)の信号文の『 皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ 』は参謀・真之の有名な一節であり、子規より得た文学的才能が開花した名文として歴史に残った。 

兄同様、身なりなどを気にしない性格であったが、日本海海戦に勝利した連合艦隊の解散式における東郷平八郎の訓示(連合艦隊解散の訓示)の草稿を秋山が作成したもの。 この文章に感動した、時の米大統領ルーズベルトは、全文英訳させて米国海軍に頒布したともいわれる。
東郷平八郎は、真之を「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)と評価した。 海軍中将。



  
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2015-12-09(Wed)

四国の旅・愛媛県: 伊予松山 「正岡 子規」(Ⅱ) 




 四国の旅・愛媛県: 伊予松山 「正岡 子規」(Ⅱ)   、




〇〇


正岡 子規の旅姿



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子規は、35歳の若さでこの世を去っている。
辞世の句、絶句になった・・、

『 糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな 』 享年34。


この句は、自分の死を既に仏に成るまで達観し、冷静に見詰めている。
子規の忌日の9月19日を(1902・明治35年)「糸瓜(へちま)忌」としている。 これは「秋の季語」でもある。 
又、子規自身、自分のことを「獺祭亭主人」と号していたから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。 獺(かわうそ)は獲物を集め、巣の周りにたくさん並べて置いておく、それを称して「獺祭」といい、子規の生きようとする意欲が食へのこだわりにつながり、看病する母や妹が枕元へ常に食物を並べて置いていたという。



子規は、死を迎えるまでの約7年前から結核を患っていたという。
病床の中から「病床六尺」を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録であると評される。 
反面、闘病日記である「仰臥慢録」は、読む人をして、心が痛んで、とてもまともには読めないともいわれる。

本名・常規(つねのり)であるが、雅号の「子規」とはホトトギスの異称で、結核を病み喀血した自分自身を、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたものである。 
そのとおり子規の文学は、その病と切っても切り離せないものであった。
子規が最初に喀血したのは、1888年(明治21年)8月の、鎌倉旅行の最中であったといい、医師に肺結核と診断される。 当時結核は不治の病とみなされており、この診断を受けたものは必然的に死を意識せざるを得なくなり、この時、子規は「ホトトギス」の句を作り、はじめて自分を「子規」と号するようになった。

『 新年や 鶯鳴いて ホトトギス 』


ホトトギスは、カッコウとも呼ばれ杜鵑、時鳥、子規、不如帰、杜宇、蜀魂、田鵑などカッコウ科に分類される鳥である。 
特徴的な鳴き声とウグイスなどに托卵(たくらん)して育ててもらう習性で知られている。托卵とは、ある鳥が他種の鳥の巣に産卵し、その鳥に抱卵・育雛させることで、仮親の卵より早く孵化し、本親の卵を巣外に排除してしまうという、特殊な習性をもつ。


俳諧雑誌「ほととぎす」は明治30年(1897)、正岡子規の友人・柳原極堂の手により刊行された。
発行部数は当初は300部程度であったが、出版が東京に移ってからは読者は全国に拡がり、名実共に日本俳句派の機関紙となった。 
和歌や新体詩が入り、幅広い文芸誌となり、38年からは夏目漱石の小説「吾輩は猫である」を掲載、これが大変な人気となって文芸誌としての道を歩んでいく。 
「坊っちゃん」も、「ホトトギス」が初出版している。
子規の病を大きく進行させたのは日清戦争への記者としての従軍であった、1895年3月3日、新橋をたち中国の大連に向っている。 

新橋からの出発に先立ち・・、

『 雛もなし 男ばかりの 桃の宿 』 と詠んでいる。


むろんこの日は3月3日で桃の節句だった。それなのに別れを惜しんでくれる女性もいないとスネているのである。 だが心中、戦地に赴く「心意気」も感じられる。 
しかし、中号・大連に着いた頃は、既に事実上の戦争は終わっていたのである。 
帰国途上の船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院して須磨で保養した後、松山に帰郷し、当時松山中学校に赴任していた親友「夏目漱石」の下宿でしばらく静養していたという。



序ながら、俳人・正岡子規は幼少時代から「秋山真之」とは親友であり、上京した後も共立学校の同級生として交遊、和歌や俳句などを教えたともいう。
その影響からか、秋山は軍人ながら名文家としても知られており、後に「秋山文学」と称せられるほどの文章家であったという。
秋山兄弟と正岡子規の物語は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で日露戦争を背景として描かれている。


次回は、その「秋山兄弟

  
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