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2016-05-21(Sat)

新・日本紀行(118)佐世保 「ハウステンボス」 

九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)




新・日本紀行(118)佐世保 「ハウステンボス」 




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8b/Huis_Ten_Bosch_-_01.jpg/800px-Huis_Ten_Bosch_-_01.jpg
ハウステンボス全景


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bf/Domtoren_huistenbosch.jpg
ドムトールン遠望 (以上、Wik)



「日本一周の旅の記録」へリンクします
 

西九州道よりR205へ、早岐瀬戸大橋を渡り(当日は、正直、この地が早岐瀬戸とは全く気ずかず、普通の川でと思って通過している)、案内板に従ってハウステンボス方面へ向かと、間もなく、緑の中に煌びやかな建物群が現れた。

様子を伺いながら奥のほうのガラガラの駐車場へ車を置いて全貌を眺める。
手前の水辺に回遊船であろうか、十数隻の船が、暇そうに係留されている、尤も、今日あたりはウィークデイの平日である。

その向こう遠方にシンボルタワーの『ドムトールン』とかいう十字架が天を指す高層の建物が聳えている。 
高さ105mのタワーは、敷地内のどこからでも見える“道しるべ”的存在であろうか。 
それにしても平日のせいとはいえ、人の姿は殆ど見受けられない。


この「ハウステンボス」は1992年3月25日にオープンし、建設などにかかった費用は総額2千数百億円といわれる。
巨額の投資でオープンした、さしものテーマパークも、時勢というか不況の煽りで、2003年2月26日、遂に会社更生法を適用し事実上倒産した。
負債総額は2289億円といわれる・・が、更生法適用後はスポンサー企業の申し出も殺到しているそうである。 総合保養地域整備法(リゾート法)の適用も受けているらしいが、ガンバレ・・!!「ハウステンボス」。


西海パールライン、眺めのいい針尾の瀬戸の西海橋をわたり、国道202から更に国道206南下する。
大村湾の西部、西彼半島の北部に位置する西彼町(せいひちょう)にやって来たところで、今度は赤レンガの洒落た洋風の建物群が現れた、こちらは「オランダ村」である。 
ところが、ハウステンボスとは違って、ここは人気は全く感じられず静まり返っている。
それもそのはず、当地は2001年に閉鎖していたのである。

長崎オランダ村は、町役場職員の神近義邦氏によってバブル(泡、気泡、泡沫、転じて実体のない見せかけだけのものという意味)景気絶頂の時期の1983年に開園している。 
彼は「長崎県にゆかりの深いオランダの街並みを、路面に敷かれたレンガ一つまで忠実にそっくりそのまま大村湾の入江に再現する」という大胆な意気込みで、国内旅行需要増加も手伝い長崎観光の新しい目玉にした。佐世保市のテーマーパークのハウステンボスのルーツとなった施設でもある。 
だが、バブルの波が去った2001年には閉園し、現在も跡地利用のめどは立っていないといわれる。

最終日の10月21日には、新聞報道によると6500人という入場者があったそうである。 
乗り物や釣などもみんな無料で、土産屋は安売りなどもされていたが、ちょっと寂し気であった・・、と来場者は語っていた。
その日は生憎の雨となり、オランダ村がなくなるのを惜しんでいるようでもあったという。

西彼町は大瀬戸町、西海町、大島町(島部)、崎戸町(島部)の計5町は2005年4月に合併して、新しく西海市(さいかいし)が誕生している。


次回から、「長崎市

  
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2016-05-21(Sat)

新・日本紀行(118)佐世保 「軍港・佐世保」 



九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)



『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
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九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/



 新・日本紀行(118)佐世保 「軍港・佐世保」   、





佐世保の地図と主要地





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佐世保軍港で米軍兵士の“黒ちゃん”に捕まった・・!、

間もなく佐世保市へ入った模様である。 
佐世保は、2005年4月、吉井町、世知原町を編入し、新「佐世保市」になっているが、更に、来年、2006年3月31日を以って小佐々町、宇久町を佐世保市に編入する予定らしい。 
宇久町を地図上で佐世保周辺を見回したが、見つからず、はて、何処にあるもんか・・?と更に探し出すと在りまして、平戸島の西方の島(宇久島)の領域であった。


佐世保市街に到り、著名な軍港でもあるので港へ出て軍艦の一隻でも見物しようと車を進めると、突然、米軍基地の正門へ達してしまった。 
「シマッタ・・!」と思ったが遅かった、米軍の“黒ちゃん”に捕まってしまったのである。 
直ちに二人の日本人守衛に引き渡されて、免許証の提示や車内検査をやられ、軽い身体検査までさせられた。 
事情を丁寧に話すと、どうやら納得したようで、終いには「此れからどちらへ・・」とか「厚木の基地はどうですか・・」とか世間話にまで及んでしまった。 

相手は、中年相当の人で、盛んに“ばってん”とか・・“よかばってん”・・と地方訛、長崎弁をまくし立てられたが、最後に気持ち良く見送ってくれた。

どうやら軍艦は、一般の人は市中からは望めないらしい、それもそうだな、と変に納得した。いやはやとんだ目に合いました、出発初日、横須賀軍港で同じ事をやらかしたのを思い出した。



佐世保港は三方を高い山に囲まれ、水深が概ね10m以上あるため、天然の良港といわれ、ここに目をつけた旧帝国海軍は明治22年頃から軍港とし、第三海軍区佐世保鎮守府として戦事一色の港になった。 

昭和20年に終戦を迎え、一端は、軍港としての幕を閉じ、昭和23年には貿易港の指定を受けたが、同年6月に勃発した朝鮮戦争により、港湾施設の大半を米軍に接収され、再び軍港としての色合を濃くした。 

他の港にない特徴としては、港内の水域の約83%が「日米地位協定」に基づく、米軍への「提供水域」として米軍により管理され、日本の船が航行する場合にはいろんな規制や制限が課せられているという。


太平洋戦争末期、米軍は佐世保の市街地だけを爆撃し、広大な軍港の施設、巨大な弾薬庫や貯油施設をほぼ無傷で残した。
このことは通常の常識では考えられない全く逆の軍事攻撃を行ったのであり、そして、まんまと思惑通り軍事施設をそっくりそのまま手に入れたのである。 

戦後はそのまま米海軍第七艦隊の基地となり、朝鮮、ベトナム、湾岸、アフガンに出撃、現在はイラク戦争の最大の補給基地になっている。 
沖縄と佐世保の米軍基地がなければ、イラク戦争は遂行できなかったともいわれる。


軍港のイメージが強い佐世保であるが、もともとは西海国立公園の九十九島を始め、市街地北部に連なる弓張岳、烏帽子岳など景勝地も多く、これに西海橋や、昨今では「ハウステンボス」などのテーマタウンも加わわって、観光都市としての色彩も十分である。



さて、先へ進もう・・、
直に国道と港に面した佐世保駅前で暫し港を見物して(軍港ではない)一部、西九州道を乗り継いで、例のハウステンボスへ向かってみた。 
佐世保の南側の海域、陸域は,これまた複雑な地形になっている。 
琵琶湖よりも小ぶりな「大村湾」だが、この海域は細い二つの瀬戸(幅の狭い海峡になっていて、潮汐の干満によって激しい潮流を生ずるところ)で外洋に繋がっている。 

西側の西海町を隔てている「針尾の瀬戸」と東側の「早岐瀬戸」(はいきのせと)である。 
早岐瀬戸は、佐世保市早岐町付近を南北に通じているが、一見、川の様でもあるし、陸地を切り削って造った運河のようでもあるが、しかし、れっきとした海峡で海である。
長さ12キロ、平均幅50mで、日本でも最も狭い海峡と言われ、現に東側の陸地は針尾島という島であることから。

最狭部は早岐町の国道202号線に架かる、その名も「観潮橋」といい、僅かに10m足らずの幅で轟音を立てながら海水が流れているという。 
おまけに、川べり、でなく海べりに「潮音荘」という旅館が在り、潮を観るのではなく、潮の音を聞く旅館というのが味噌(醤油、味の素)である。
実は世界で最も狭い海峡として、小豆島の土淵海峡(どぶちかいきょう)がギネスに登録されているという。

因みに、針尾の瀬戸は、日本三大潮流(阿波の水門:鳴門海峡、早靹ノ瀬戸:関門海峡)の一つである。 
又、この大村湾の最奥部が諫早で、この地域は東側には例の干拓で物議のある有明湾に接してもいる。尚、諫早の干拓については後の記載いたします。

この「早岐の瀬戸」の大村湾寄りの針尾島側に、オランダの街並みを再現した「ハウステンボス」が所在する。

このヨーロピアン・タウンは、東京ドームの33個分という広大な敷地に17世紀のオランダの街並みが再現されたウォーターフロントリゾートである。 
ハウステンボスとは、オランダ語で「森の家」という意味で、街には船が行き交う全長6kmの運河が走り、ホテルを主体に様々なアミューズメント・ミュージアム施設をはじめ、ショッピングやレストランも充実している。郵便局や銀行等生活する街としての機能も備えているという。

変わったところでは高貴な「迎賓館」というオランダ王室等のVIP宿泊用に設けられたホテルもある。
過去に宿泊した主なVIP は天皇・皇后両陛下(2002年11月、「全国豊かな海づくり大会臨席時」)ベアトリクス女王(オランダ女王)、秋篠宮文仁親王・紀子妃夫妻、有名人にはマイケル・ジャクソンなどもいる。


次回、「長崎ハウステンポス」

  
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2016-05-20(Fri)

新・日本紀行(117)対馬 「李承晩ライン」  



九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)



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  新・日本紀行(117)対馬 「李承晩ライン」      、





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「李承晩ライン」・・!!、若い人はご存知であろうか・・?、

しかし、李承晩は「対馬、竹島は韓国のもの」と、更に主張を通すため実力行使に出た。
李承晩ライン(りしょうばんライン)は、昭和27年(1952年)1月18日、韓国初代大統領の李承晩の海洋主権宣言に基づき設定した漁船立入禁止線で、韓国では「平和線」と呼んでいる。 
海洋資源の保護のため、韓国付近の公海での漁業を韓国籍以外の漁船で 行うことを禁止したものである。

これに違反した漁船(主として日本国籍)は 韓国側による拿捕・臨検の対象となり、実際に銃撃される事件まで起こった。 
国際法上の慣例を無視した措置として日本側は強く抗議したが、このラインの廃止は昭和40年(1965年)の「日韓漁業協定」の成立まで待たなくてはならなかった。

協定が成立するまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えたという。


今現在、韓国は李承晩ラインによって「竹島」を実効支配しているが・・?、
壱岐、対馬の歴史的価値は、日本の稲作文明、鉄器文明の海上経由の地であり、中国、朝鮮の中継基地であった。 
日本が開いた根源の地であったが、「通商多くして、尚、人民馴染めず」で過去から現在まで大方そのようで、昨今も中国、韓国とは領土的にもお互い一線をかし、政治的にも相容れないものがある。

近隣の国同士とは、このようなものであろうか・・?、
ここには国威意識があるようだが、日本は果たして・・??。




再び、朱色の平戸大橋を渡り返して国道204を南下する。

山間部を少々走ると道の駅「昆虫の里・たびら」(田平町)があった、こちらで小服をとる。 
それにしても、敷地内入口にカブトムシの大きなモニュメントが、目立つように建っている。
季節になると多種な昆虫が生息し、あるいわ採取できるのであろうか・・?。

確かに、周辺は低山地帯に囲まれた田園、里山の風情があり、日本の田舎原風景を呈している。
豊かな緑に囲まれた環境には、多くの甲殻昆虫が生息し、淡水の魚類も多そうではある。 
赤い屋根のログハウス風の建物の情報によると、この近くにはやはりというか・・「たびら昆虫館」とやらがあって、館といっても自然のままの畑や小川、池、雑木林、草原を再現し、そこに集まる昆虫などの生物を観察する施設であるという。 
子供達に人気のカブト虫やクワガタ、蝶やトンボなどの昆虫が沢山生息しており、案内の係員が丁寧に説明してくれるので楽しく学べるという。


今、休憩しながら、今夜の宿を確保するために地図を広げている。 
長崎県というのは複雑な地形をしているのに、今更ながら驚いた。

中心に大村湾という大きな海域を有していて、沿岸にそって一筆書きのような行程を進めると、どうも具合が悪いようである。 
沿岸地方の地域を周回気味に進行して小生ではあるが、ここ長崎に到っては要地、要所を選択しながら行くしかないようである。 
ともあれ、今夜の宿は雲仙の温泉地・小浜温泉にどうやら決められたので一安心である、そこを目標に進むとする。


国道204は相変わらず山中をひた走る、同じように鉄道が並んでいる。 
江迎町、佐々町と丘陵地に囲まれた田園地帯を行く、田舎とはいえ道は良く整備され、山中ではあるが上下動、左右の屈曲は殆ど無く、目に優しい青葉の緑を満喫しながらの快適なドライブである。

丘陵地の山肌には、濃い緑色の葉をもつ「枇杷」の木が目立つ、 西九州は枇杷の産地か・・?、果実に害虫除けであろう白い袋が被せてあるのも有る。
今が成熟期であろうか、細長い葉の間に橙色の枇杷の実が点々と繁っていて、山肌全体に濃い緑と橙色と白色の配色が実に奇麗である。

枇杷の木は中国が原産で、江戸期に長崎に入ってきたらしい。
樹木は 10メートルぐらいになるそうだが、栽培用としては、他の果物と同様に、収穫しやすい高さに手入れをされている。 

国内の主な生産地は長崎の「茂木枇杷」(長崎市の南地区)だそうで、やはりこの辺りが移入原産になるのかもしれない・・?。 
他に、千葉県以南の「富浦町の枇杷」、四国「伊予市の唐川」などが主要産地らしい。

枇杷の実は種が大きいのが、やや難点だが、熟したものは皮がスルスルと剥け、実はチュルチュルと甘く美味しい、小生の好みの果実の一品である。 
又、枇杷の葉は「茶」として「枇杷葉湯」と呼ばれ、サポニン、アミグダリン、ビタミンB17、タンニン等を含み、美容、健康によいと言われている。


次回は、「佐世保

  
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新・日本紀行(116)対馬 「占領下の対馬」 


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  新・日本紀行(116)対馬 「占領下の対馬」  






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江戸期、「対馬」は華やいだ・・、

江戸時代になって、幕府が対馬に藩を置き城下を造り、この地に朝鮮外交の事務局を置いたのである。 
将軍が交代するたびに鎖国下においても、朝鮮通信士(数百人にものぼる朝鮮外交団)がこの対馬を経由して、はるばる江戸を往来したという。
この時期、沿道、諸国、日本はある種の朝鮮ブームだったと言われる。

明治期の近代においては、ロシア、イギリスによる対馬への接近に脅威を感じた日本政府は、軍を配置し国境最前線である対馬島の要塞化を図った。 
国境線に近い海岸線の各地域に砲台が築かれ、昭和前期には対馬海峡全体を防衛できるほど整備された。 
特に豊砲台には、軍縮条約により巡洋戦艦から航空母艦へ転用された「赤城」の40cm連装砲塔が、又、竜ノ崎砲台には戦艦「摂津」の30cm連装砲塔が設置された。
豊砲台の跡地は今日でも見学することができる。


終戦後の昭和23年頃のある時期、韓国・李承晩大統領が「対馬は韓国の領土だ・・!」と言い放った。 そして竹島は実際に韓国が」此の宣言によって実行しはされているのである。

当時の日本は米国の占領下にあったから、日本の領土に関することは米国・国務省に持ち込むのが筋であった。 しかも、日本に辛苦を嘗めさせられた代償に対馬をよこせ、と言うならまだしも我が領土だ・・!、と言い放ったのは拙かった。 

昨今公開された国務省機密文書によると、大統領の意を組んだ韓国の駐米大使がダレス長官に会い、対馬の領有を主張したとある。(日本が敗戦で苦悩している最中の、ドサクサまぎれに・・!) 

古来、朝鮮・韓国が領土の件で、外交問題化したのは稀有だという。 
この申し入れに対してダレス長官は「対馬は極めて長期間にわたり日本の領土である」とキッパリ言って、この件を一蹴させている。


次回、対馬 「李承晩ライン」

  
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2016-05-19(Thu)

新・日本紀行(116)壱岐・対馬 「大陸文明中継地」(Ⅰ)



九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
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 新・日本紀行(116)壱岐・対馬 「大陸文明中継地」(Ⅰ)  ,






http://kurubee.jp/wp-cntpnl/wp-content/uploads/2016/01/d514d6ffcddea368c1ea80e289f544db.jpg




対馬の海岸風景



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壱岐、対馬は日本の弥生文化を広めた中継基地であった・・、

平戸は平戸島のことで、架橋で渡れる九州本土とは接近している島であり、近代日本の先駆けの島であった。
一方、同じ長崎県に属するが本土から20kmも離れた「壱岐」が在り、更に130kmも離れて対馬列島が浮かぶ。 
何れの島も歴史的には「古事記」にも記載されるような興味深い所などで、序ながら両島のことについて少々述べたい。



壱岐、対馬は日本海・玄界灘に浮かぶ島で、今は壱岐市、対馬市となり長崎県の行政区分である。
古事記の冒頭に国生みの話が出てくる、「次に壱岐を生み、次に対馬を生みき・・」とあり、神代の時代から認識されていたらしい。

日本の農耕稲作文化を弥生式文化といい、この時期に日本の国、国名である「倭国」が出来ている。
倭国という国名は、中国(三国時代・魏、蜀、呉の時代)が付けたのか、日本人が付けたのか詳細は不明であるが、中国人が日本人を呼ぶときに「倭人」と呼んでいて、倭人の国だから倭国と称していたことは当時の「魏志倭人伝」にも記されている。 
日本では、その後「倭」は「和」に通じ、やがて「大和の国」を成立させている。 

この時期に朝鮮半島から鉄器が到来して、鉄器時代を迎え、国土が出来上がる。 
以前の土・石の時代を「縄文文化時代」と称したのに対し、鉄器の来入、鉄器の時代を一般に「弥生式文化」と呼んでいる。 
「魏志倭人伝」の中には、鉄が日本に伝わる状況が詳しく記されているという。
この時期の鉄というのは、鉄の原材料である砂鉄、もしくは鉄を荒加工したものと言われる。


壱岐、対馬
は日本の弥生文化を広めた中継基地であった。 ただ、壱岐と対馬は地形的に全く異なるという。
壱岐は平地多くして水が豊富であるが、一方、対馬は「土地は山険しく、深い森が多く、良田無し」とまで魏志倭人伝にも記されている。 

壱岐からは、往時の鉄器と思われる多数の遺跡が発掘されている、対馬にはそれが無い。 
地理的に見ると対馬のほうが朝鮮に極めて近く、尚且つ、国土も広いが、地形がそれを拒んだと見るべきであろう。 

壱岐の農耕文化に対し、対馬は「良田無く、海物を食って自活せり・・」とも魏志倭人伝が言っている通り海洋漁民文化であり、長崎沖の日本海に浮かぶ同じ島国でありながら、全く異なる相違性を示しているのは面白い。 

因みに、長崎県自体丘陵、山域の地で平野が少ない。同様に長崎市にいたっても三方を山に囲まれ、市街自体も坂の町である。干拓で有名な諫早地域が最も広い平地を持つともいう。
壱岐は島としては珍らしく、島全体が諫早に次ぐ平地を抱えて農地化されているという。


中国では6~7世紀、三国時代から隋、唐へと移り、朝鮮半島では百済、新羅、高句麗の時代であった。
新興国・唐は領土拡大・覇権のために他民族の諸国を侵略し出した。朝鮮半島にも進出しようとしたが、高句麗や百済が抵抗して簡単には行かず、そのため唐は新羅と同盟した。
その連合軍の攻撃によって百済は攻め滅ぼされたのである。

百済は当時親交のあった倭国(日本)へ救済を求め、倭国・日本は同意して朝鮮へ上陸し、連合して戦った。(白村江・はくすきにえの戦い)しかし、百済・日本連合軍は水上決戦で唐・新羅軍に大敗を喫し、半島からの完全な撤退を余儀なくされた。

そして唐・新羅の本土侵攻に脅威を感じた日本は、対馬・壱岐及び筑紫に防人(さきもり)と(のろし)を置いた。

対馬は元より「自給自足」の出来ない国であり、古来、歴史を通して本土や朝鮮から食料を仰ぐことが重要な要素になっていた(今の日本に似ている・・?)。 
下って8世紀頃、九州統括の「大宰府」は対馬に食料を送る官船を出していた。
これは、防人という余人が多数やって来たので、当然食糧難になり「対馬、食料船」を用意したのである。

鎌倉期になって元寇の博多攻めの時、蒙古の一部船団が対馬へ寄港した。 
前もって幕府より蒙古襲来の危機の通報を受けていた対馬では、地頭職・守備団を結成し、僅か100名足らずで待機していたが、千人余の蒙古将兵によって瞬時に壊滅された。 
元より蒙古軍は一時停泊で、休息後は博多へ向かうはずだったらしいが、武士団は当時の世の習いに従って、少数ながら敵陣に突っ込み、武士の一分を果たしたまでであったというが。


次回、壱岐・対馬 「大陸文明中継地」(Ⅱ)

  
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2016-05-18(Wed)

新・日本紀行(115)平戸 「開国の島」(Ⅱ) 


九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)





   新・日本紀行(115)平戸 「開国の島」(Ⅱ)  






http://www1.odn.ne.jp/tomas/himosasi582.jpg
紐差教会



http://www1.odn.ne.jp/tomas/hirado12033.jpg
平戸ザビエル記念教会




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平戸城は松浦党の子孫、松浦鎮信(しげのぶ)が朝鮮出兵から帰還し、慶長4年(1599年)に築城するのだが嫡子・久信の急死のせいか、幕府への政治的な配慮か、完成を待たず自ら焼き捨てるという異行を行ってしまう。 
その後、百年余りにわたって城が築かれることはなかったが、江戸中期の元禄15年、沿岸警備の必要性もあって幕府に築城を願い出、特別に許可され再度この地に城を築いたという。 

築城縄張りは山鹿素行によるものといい、素行は江戸時代前期の儒学者・兵学者で、忠臣蔵で大石内蔵助が討ち入りの際に打った「一打ち、二打ち、三流れ、これぞ山鹿流の陣太鼓・・!」は有名である。 

素行は、陸奥国会津若松で生れ、林羅山の門人となり朱子学を学び、甲州流軍学を修得、赤穂藩主浅野長直に禄高一千石で仕えた。 
忠臣蔵の大石内蔵助ら赤穂藩士、幕末の吉田松陰も山鹿流を学んでいる。



東シナ海の風に吹かれ、潮に流されて行き着く所、ここが日本本土に一番近い平戸であり、海風に乗って色んな物がこの地へ流れ着いた。 
平戸は、戦国初期から江戸初期までの凡そ100年間、海外と接触していたとされる。

城を築いた松浦鎮信の父・隆信(たかのぶ:1529~1599年)は大名でありながら、交易家としての誉れが高い。
海人・松浦氏は倭寇と呼ばれ、元来、海賊行為をしていたが、やがては中国、朝鮮と事実上の交易を始める。 
隆信はこれに飽き足らず、当時、欧州では「大航海時代」に入りつつ有ったのもきっかけにして、欧州・ポルトガルを招き寄せる。
その後、オランダ、スペインといった国とも通商をはじめるのである。

所謂、南蛮貿易を開始して、鉄砲や大砲といった飛び道具を日本で初めて購入し、欧州特有の異国文化をも導入するきっかけを創った。
しかも、平戸城下に彼等を住まわせるなどして、貿易による巨万の富を築き上げ、その財力を背景にして松浦半島を制圧したとも云われる。 
松浦隆信は戦国大名への躍進と近世への存続の安泰を確実なものとした名君であった。平戸市・松浦史料博物館前には彼の銅像も建つ。


平戸は海外貿易をきっかけに、長崎をはじめ天草、五島などと共にキリシタンの島としても知られる。
当時、日本唯一の国際貿易港として繁栄を極め、日本でいちはやくフランシスコ・ザビエルによりキリスト教の布教が始まったのも平戸からであった。 
島内には、長い歴史を誇る当時の史跡が数多く残り、歴史的建造物や異国情緒を漂わせた町並みが残っている。

中でも紐差教会(ひもさし きょうかい:国内で2番目大きい教会、最大は長崎・浦上天主堂)、宝亀(ほうき)教会(ユネスコの世界遺産〈文化遺産〉暫定リスト「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する教会の1つ、県有形重文)、聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂(平戸教会)、田平天主堂(「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産暫定リスト、国指定重要文化財)等、平戸市内各所には多くの美しい教会・天主堂が存在する。

又、平戸オランダ商館は、オランダ東インド会社が平戸の崎方地区に設置した日本で最初の外国商館である。(後に、長崎・出島へ移転)この商館を通じて日本で初めて、いろんな物が移入してきた。 

主なものは・・、
【タバコ】 1601年、タバコの種子が初めて平戸に上陸し、このとき藩主・松浦鎮信に贈られ、種子などを徳川家康に献上している。
【ペンキ】 1609年、オランダ商館が建てられた時、その外観を彩ったのが、日本で最初に使われたペンキであり、住民は一種のカルチャーショックを受けた。
【甘藷(さつまいも)】 1615年、ウィリアム・アダムズ(※)が琉球から伝える、初めて甘藷の栽培を行う。
【ビール】 1613年、英国船「グローブ号」が平戸に来航した時、日本へ初のビールが伝来と言われている。
【西洋医学】 航海船が西洋医学を日本にもたらされた。その医学を学んだ嵐山甫庵(あらしやまほあん)は、平戸判田(はんだ)家の出身で、西洋医学(蘭学)の先駆者として知らる。
【日本禅宗とお茶】 臨済宗の祖・栄西(えいさい)は、渡「宋」の帰途、平戸に数カ月滞在し、禅宗を広め、また、中国で入手したお茶の種子を蒔き、製茶や喫茶の方法を日本に伝える・
等々、平戸は日本の先駆けであった。

(※)ウィリアム・アダムズはオランダの貿易会社東洋派遣隊の航海士で、後に徳川家康に召し抱えられ、幕府の外交顧問となる。和名「三浦按針(みうらあんじん)」は余りにも有名で、平戸オランダ商館の設置と通商における中心人物の一人であった。 
三浦の姓は家康が三浦半島の一部を与えたことから、その名が付いた。


次回は、「壱岐、対馬

  
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2016-05-17(Tue)

新・日本紀行(114)松浦 「松浦党と渡辺綱」 



九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)





  新・日本紀行(114)松浦 「松浦党と渡辺綱」  





https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Kuniyoshi_Imperial_Bodyguard_Fighting_with_a_Demon.jpg
渡辺綱(Wik)




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松浦党の発祥については先に記したが平安中期の990年頃、摂津・渡辺の庄にあった源頼光が肥前守に任ぜられ、渡辺綱(わたなべのつな:平安中期の武将。
源氏の一族で本名は源綱。坂田公時、平貞道、卜部季武とならんで源頼光の四天王と称された:大江山の酒呑童子退治で有名)を同伴して松浦郡に下向したからと云われる。
任期を終えて帰洛したが、綱はこの間に男子・子供をもうける。

又、後に渡辺綱の孫に当る松浦 久が「宇野御厨」の検校(けんぎょう:荘、社寺の総務を監督する役)となって「今福」に着任している。 
これらが松浦市の北部沿岸に松浦家・松浦党が発祥した直接的な事由であり、祖先が肥前国と関係をもった最初でもあるという。


渡辺氏は、摂津国の渡辺津(大阪市中央区)を本拠地とする渡辺党と呼ばれる武士団を形成し、瀬戸内海の水運に関与し、瀬戸内海の水軍の棟梁的存在になると共に皇室領の大江御厨(摂津の御厨)をも統轄していた。 

彼らは摂津国住吉の浜(住之江の浜、大阪湾)を拠点に、海運、海上交通を通じて日本全国に散らばり、各地に渡辺氏の支族を残したとされる。
肥前国の松浦氏もその庶氏の一人で、松浦党をはじめ山代氏に連なる松浦氏族を輩出している。

尚、綱は「源満仲」(みなもと の みつなか; 清和源氏の祖、源氏の祖)の子・頼光に仕えて四天王の一人と称せられたが、この綱の子が摂津・渡辺党となってこの地に展開した。 

渡辺氏は元々は嵯峨源氏(嵯峨天皇の一族、嵯峨源氏)の一党で、その一人源綱(みなもとの・つな)が、清和源氏の源満仲の娘婿の養子となり、母方の里の摂津国渡辺(現・大阪市中央区)に住み、同地を本拠地として渡辺綱(渡辺源氏)と名のり渡辺氏の祖となったと云われている。

その兄弟達は、名乗りが一字であることが特徴的で、綱の子達から多くの諸流渡辺氏が生まれた。九州の水軍・松浦党の祖の松浦久(渡辺久、源久、渡辺綱の孫)もまた渡辺氏の出である。


尚、源 満仲(清和源氏3代目)は平安中期の武将で、清和源氏・六孫王経基(清和源氏2代目、清和天皇の第6皇子の子、皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされる)の子で、「多田」を号したことから多田 満仲(ただ の みつなか)とも呼ばれる。

その子達が各地へ散って、その地の源氏の名を起こす。長子の源頼光は摂津源氏、次男の源頼親は大和源氏、三男の源頼信は河内源氏のそれぞれの祖となっている。 
又、清和天皇を祖とする清和源氏は、主に源 満仲から武家源氏の道を歩んだとされ、その代表に河内源氏の源頼朝がいる。


次回は「平戸」へ

  
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新・日本紀行(114)松浦 「松浦党と渡辺綱」



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松浦党の発祥については先に記したが平安中期の990年頃、摂津・渡辺の庄にあった源頼光が肥前守に任ぜられ、渡辺綱(わたなべのつな:平安中期の武将。
源氏の一族で本名は源綱。坂田公時、平貞道、卜部季武とならんで源頼光の四天王と称された:大江山の酒呑童子退治で有名)を同伴して松浦郡に下向したからと云われる。
任期を終えて帰洛したが、綱はこの間に男子・子供をもうける。

又、後に渡辺綱の孫に当る松浦 久が「宇野御厨」の検校(けんぎょう:荘、社寺の総務を監督する役)となって「今福」に着任している。 
これらが松浦市の北部沿岸に松浦家・松浦党が発祥した直接的な事由であり、祖先が肥前国と関係をもった最初でもあるという。


渡辺氏は、摂津国の渡辺津(大阪市中央区)を本拠地とする渡辺党と呼ばれる武士団を形成し、瀬戸内海の水運に関与し、瀬戸内海の水軍の棟梁的存在になると共に皇室領の大江御厨(摂津の御厨)をも統轄していた。 

彼らは摂津国住吉の浜(住之江の浜、大阪湾)を拠点に、海運、海上交通を通じて日本全国に散らばり、各地に渡辺氏の支族を残したとされる。
肥前国の松浦氏もその庶氏の一人で、松浦党をはじめ山代氏に連なる松浦氏族を輩出している。

尚、綱は「源満仲」(みなもと の みつなか; 清和源氏の祖、源氏の祖)の子・頼光に仕えて四天王の一人と称せられたが、この綱の子が摂津・渡辺党となってこの地に展開した。 

渡辺氏は元々は嵯峨源氏(嵯峨天皇の一族、嵯峨源氏)の一党で、その一人源綱(みなもとの・つな)が、清和源氏の源満仲の娘婿の養子となり、母方の里の摂津国渡辺(現・大阪市中央区)に住み、同地を本拠地として渡辺綱(渡辺源氏)と名のり渡辺氏の祖となったと云われている。

その兄弟達は、名乗りが一字であることが特徴的で、綱の子達から多くの諸流渡辺氏が生まれた。九州の水軍・松浦党の祖の松浦久(渡辺久、源久、渡辺綱の孫)もまた渡辺氏の出である。


尚、源 満仲(清和源氏3代目)は平安中期の武将で、清和源氏・六孫王経基(清和源氏2代目、清和天皇の第6皇子の子、皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされる)の子で、「多田」を号したことから多田 満仲(ただ の みつなか)とも呼ばれる。

その子達が各地へ散って、その地の源氏の名を起こす。長子の源頼光は摂津源氏、次男の源頼親は大和源氏、三男の源頼信は河内源氏のそれぞれの祖となっている。 
又、清和天皇を祖とする清和源氏は、主に源 満仲から武家源氏の道を歩んだとされ、その代表に河内源氏の源頼朝がいる。


次回は「平戸」へ

  
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新・日本紀行(114)松浦 「松浦半島」



.九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)



『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/



 新・日本紀行(114)松浦 「松浦半島」 ,







先に、松浦党について述べたが、再び「松浦」について・・、

瀬戸町から伊万里大橋を渡って対岸の鳴石地区へ渡る。 
鋭いV状の湾が途中で対岸と最も接近している場所では指呼の間である。
しかし、V先端の河口市街までは未だ相当の距離を残している。 
従って、松浦市方面や平戸方面に行くには伊万里市街地を通り、かなりの大回りコースを余儀なくされた。

だが、幸いに平成15年、山代町と黒川町を繋ぐ延長約3kmの伊万里港臨港道路、つまり伊万里大橋が完成した。 この大橋の完成により15キロ約40分ほどの時間短縮になるという。

今までの大きな半島を東松浦半島と言っているようで佐賀県に属するが、対して此方の西側の半島は長崎県に属し正規の松浦半島といえるかもしれない。 何故なら、此の半島の北部海岸には松浦市が存在し、松浦党の本拠地ともされているからです。



先ほどまで松浦半島の西を走行していた時は、入り組んだ道路で余り展望は望めなかったが、こちら湾の西側来て伊万里湾の深い入江に面した穏やかな海が望め、湾内には大小の島々が浮かぶ風光が垣間見える。 

すぐ横を松浦鉄道が走る。 
国鉄時代、炭鉱があった頃は急行が走るほどの大盛況だったそうだが、その後の合理化のあおりで第三セクター鉄道「松浦鉄道㈱」になり再スタートを切ったようである。 
赤と青の線を施した白の車体の汽動車(ジーゼルカー・・?)が海岸沿いを、ゆったりと走る姿はいい眺めである。 
最近は、列車本数も大幅に増やし、新しく作られた駅は、国鉄時代より2倍にも増え、利便性は大幅にアップしたという。
その結果利用客も増え、最近では黒字経営になっているという。
全国的にも珍しい成功例であろう。


やがて伊万里湾が離れる辺り、長崎県に到ったようである。 松浦市である。 
今福」の港を過ぎ、平尾の岬あたりへ来ると一段と伊万里湾・外浦のパノラマ絶景、入り組んだ島々の明媚な風光が、目に眩いほどの鮮やかさで飛び込んでくる。

風評だが、弘法大師があまりの美しさに筆を投げたと伝えられているのも大いに納得である。そして、ここは正真の「松浦」である。 
古来、この湾に海人・水軍、松浦党が発祥し発展したのも頷ける。 
この松浦の海岸を抜けてR204の唐津街道(平戸街道)は、平戸へ向っている。

松浦海岸の大火力発電所を見送ると、すぐ「御厨」という小さな港があった。
この鄙びた田舎に「御厨」(みくりや)という地名、地域名は以外だった。 
御厨とは、狭義には神饌(しんせん・神えのお供え物を調進する屋舎。御台所)、広義には古代・中世、皇室の供御や神社の神饌の料を献納した皇室・神社所属の領地のことで、古代末には、その荘園の一種とされていた。 

当地の「御厨」は、古代・平安期の頃は宇野御厨と称して伊勢・皇大神宮の官領であったらしく、伊勢神宮に海産類などを御供していたとされる。
「和名抄」(平安中期に編纂された百科事典に相当)には荘園として、先に述べた「東松浦」は松浦荘、西南北松浦は「宇野御厨荘」と記され、この宇野御厨は神社、朝廷に魚貝類を献上していたと記されている。

平安末期、御厨の住民は源平合戦で平家に味方した者が多かったが、当地が皇大神宮に属し、敬虔な生業(なりわい)をしていたということで、領地没収にはならなかったといわれる。


次回、松浦と渡辺綱

  
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2016-05-16(Mon)

新・日本紀行(113)伊万里 「伊万里焼」


九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)



『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/



 新・日本紀行(113)伊万里 「伊万里焼」  ,




https://www.jtopia.co.jp/media/catalog/product/cache/1/thumbnail/9df78eab33525d08d6e5fb8d27136e95/6/4/640_8_43.jpg




http://mcha-jp.com/wp-content/uploads/2015/03/IMG_5241.jpg






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伊万里焼は、朝鮮から連れ帰った陶工から始まったという・・、

国道204号を南下する。南下といっても湾岸は複雑に入り組んでいて、道路もそれに合わせて振り回されるように西に東に移動しながらの走行である。

地図上で、右手が伊万里湾のはずであるが、なかなかそれらしい姿は見えてこない。
伊万里湾は、東松浦と長崎を含む北松浦の両岸が大きく南へV状に入り込んだ深い浦を成している。 

そのV状の上部は大小の島々や、出張った岬で覆っているし、南端の江の部分は、伊万里川、有田川の大きな河川が流れ込んでいる。 
したがって、この浦・湾は風波に影響されることなく静かで、最奥部は汽水状態を呈している。


この条件の中、伊万里湾は日本最大のカブトガニの繁殖地となっていというのも頷ける。 
伊万里市木須町の多々良海岸は、「カブトガニの産卵を見れる」地として有名であり、産卵期の夏の大潮の満潮の頃は砂浜にあがって雌が砂を堀り数100個の卵を生む、雄はそれに砂をかけてやるという。


伊万里湾は、その他にも色々な顔を持つ。 
江戸時代の記録には、冬になるとイルカの群れが押し寄せ、湾に臨む小高い丘には三百頭以上のイルカが揚がったという記念碑も残る。

昭和初期石炭産業が華やかだったころ、伊万里市山代町と東山代町には五つの大きな炭鉱が集中していた。
久原駅からは何両も連なる貨車が、伊万里湾沿いの桟橋からは機帆船(発動機・エンジン付き帆船の略)が沖合で待つ大型船へ向かって「黒いダイヤ」を積み出した。 

合わせて、軍国風潮の頃は、軍港は南側の入り江である長崎・佐世保に決まったが、伊万里一帯は昭和15年から軍関係の輸送基地となり、20数棟の施設が並んでいたという。 

施設は、食糧や弾薬の戦地への供給基地であり、鉄道や船で運び込まれた物資は、夕暮れに乗じて輸送船団が静かに湾の沖へ移動、護衛艦を伴い戦地に向かったという。 
浦ノ崎には今も、爆薬を乗せ敵艦に体当たりする「人間魚雷」を造った造船所の廃虚が横たわる。



しかし何といっても伊万里は焼き物であろう、伊万里の南隣りに有田町があり、日本の伝統工芸品の一つ、有田焼の産地として知られている。(2006年3月1日、西有田町と有田町が対等合併し、新町制による有田町が発足する)。 

有田、伊万里で焼かれた肥前の磁器は、江戸時代には積み出し港の名を取って「伊万里焼」と呼ばれていた。 
現代でも、美術史方面では「伊万里」の呼称が多く使われている。 
有田焼」と「伊万里焼」とはほぼ同義と考えられるが、「有田焼」は佐賀県有田町で生産される磁器を指し、「伊万里焼」はやや範囲を広げて肥前磁器全般を指すという考え方もあるという。

有田焼の祖とされる韓国人・李参平(イ・サムピョン、)は、1616年頃に有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに焼窯を開き日本初の白磁を焼いたとされ、李参平が日本磁器の祖であるといわれる。

肥前磁器の焼造は17世紀初頭から始まったと言われ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、多くの藩が陶工を日本本国へと連れ帰ったといわれる。 

日本ではじめて磁器が生まれたのは、江戸時代初頭、現在の佐賀県有田町であった。 
この日本で唯一の磁器生産地を持った鍋島藩は有田の優秀な陶工を集めて藩直営の窯を築き、御用窯として城内の調度品、また献上、贈答用の磁器を焼かせた。 

1675年頃になって、藩窯は山深い伊万里市「大川内山」に移り、技術の流出を防ぐため窯元を厳しい管理下に置いた。鍋島藩では大川内山の麓に関所まで設けて、人々の出入りをチェックしたという。

当時、大川内山で焼かれたものは「鍋島物」と呼ばれ、日本国内向けに幕府や大名などへの献上・贈答用の最高級品のみをもっぱら焼いていた。特に献上品は格調が高く、風格があるといわれた最高級品であったという。 
有田・伊万里・波佐見周辺で作られた焼きものは、船に乗って有田川・伊万里川を下り、伊万里港から国内外に輸出された。 

現在の鍋島焼と言われるものの殆どは、この大川内山で焼かれたものであり、現在も大川内山には30数軒ほどの窯元がある。
又、周辺には、江戸期の関所跡や朝鮮から陶工が来て焼物をつくっていた証とされる高麗人の墓や無名の陶工たちの無縁塔等がある。 


次回は、再び「松浦

  
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