2ntブログ
--------(--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2016-05-06(Fri)

新・日本紀行(109)佐賀唐津 「虹ノ松原」 




 新・日本紀行(109)佐賀唐津 「虹ノ松原」  






 



http://trvimg.r10s.jp/share/image_up/80547/LARGE/QCva0B.jpeg



https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5e/Nijinomatsubara_from_Hamasaki_beach.jpg/1024px-Nijinomatsubara_from_Hamasaki_beach.jpg
唐津の虹ノ松原(wiki)





ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村 
にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へにほんブログ村

旅の記録;「日本一周」へリンクします

今宿辺りより「西九州道」、唐津街道を経て、「虹の松原」へ向かう、今日の泊まり地である。

糸島半島の付け根部を横断して、二丈町あたりから唐津湾の沿岸を行くようになる。 
低い山並みが海岸に迫り、過ぎ去ると再び唐津湾、否、松浦湾の紺碧の海原が光る、この地域は既に、筑前・佐賀に入っていた。

そして海岸線の渚には、鮮やかな緑の絨毯が弧を描いて延びている、「虹の松原」である。 
この湾の東端を走るR202(唐津街道)は海面からかなり高く、ここから遠望すると松の密林が如何に長大かがパノラマのように判る、もとは「二里の松原」と称していたらしい。

秀吉の時代に、唐津城主となった寺沢氏が防風林として築いたものであり、その当時は二里の松原と呼んでいたらしい。 
この松原は夕刻になると海面に映る夕景色の赤味を帯びた色合いと、松原の緑が相俟って、これが適度に弧を描いたいるので、まるで、虹のように映った。
これが何時しか、語呂合いも良い「虹の松原」になったのだろう。


この「虹の松原」の、ど真ん中に今夜の宿・国民宿舎「虹の松原ホテル」が在った。
寛ぐ前に宿の主人が「近くに、いい温泉が有りますよ・・!、通常600円のところ、当館と提携しているので僅か100円で入れます」と案内してくれた。

願ったり、叶ったりとはこの事で早速出向く。筑肥線の「虹の松原駅」前の踏み切りを渡り、国道202号線沿いに温泉は在った。
鏡山温泉茶屋 美人の湯」といい、開業して間もないらしくピカピカの温泉場である、これが100円とは嬉しい限りである・・ビバ・・!。

広々とした室内浴槽の他に、和風の半屋根に大石を設え、石灯籠を配した風流な露天風呂、樽風呂や打たせ湯もありで、何とも極楽である。やや茶色味をおびた人肌湯の温泉で、泉質は天然ラジウム温泉、 糖尿病、リューマチ、痛風、動脈硬化などにきき目があるという。 

戻った後のお待たせ料理も七色、虹色で配色され、いやはや・・、夕刻以降は虹一色であった。  
実に満足、満足・・!!。


次回は、唐津・「唐津城

  
「日本の世界遺産の旅の記録」へリンクします









【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
NatenaBlog(ハテナ・ブログ)    GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ    seesaaブログ   FC2 H・P   gooブログ   忍者ブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)  日本温泉紀行 

【日本の世界遺産紀行】   北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観   奥州・平泉   大日光紀行と世界遺産の2社1寺群   

東北紀行2010(内陸部)    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002   日光讃歌



【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   南アルプス・鳳凰三山   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   日光の山々   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「山旅の記」   「山の歌」   「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」   「日光の自然」



2016-05-06(Fri)

新・日本紀行(109)能古島 「元寇」 




『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/




 新・日本紀行(109)能古島 「元寇」   。





 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/4/43/Map_Fukuoka-City_isles.png




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/Mooko-SamuraiShips.jpg
日本国船団の絵図(島津軍  Wik)




ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村 
にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ
にほんブログ村

旅の記録;「日本一周」へリンクします

日元決戦の「文永の役」と「弘安の役」、結果は・・?、

太宰府を後にして、福岡の外環道である高速2号線・立花寺JCTより5号線に乗り移り、一旦下りて国道202号線から再び、高速福岡前原道に乗り上げ佐賀・唐津方面へ向かう。 

遠くに博多湾の今津浜と市街が望め、福岡湾の湾口に位置するところ、洋上にやや霞んだ「能古島」が浮かんでいた。 
能古島は、人口800人ほどの島で、周りは海水浴場やリゾート施設などがある行楽地の島である。

往時は、島の北面は玄界灘、「那の津」(博多の湊)から大陸に向かう船舶交通の要衝であった。言い換えれば、逆に外敵の侵攻に晒されやすい。
刀伊(とい:平安時代の後期頃、対馬・壱岐・筑前を襲った朝鮮族で、大宰府の官人に撃退された。
日本でこれを「刀伊の賊」と呼んだ)の侵攻や元寇などでしばしば島は蹂躙され、7世紀には白村江(はくすきのえ:朝鮮半島南西部を流れる錦江の河口にあった地名。

現在の群山付近とされる)において、日本軍が唐・新羅の連合軍に敗れると、海防の必要に迫られ、対馬や壱岐とともに防人が置かれたところである。
又、今宿から北へ延びる糸島半島の東岸、今津、長浜海岸そして名勝・生の松原あたりは「元寇」のあった地点で著名ある。
この辺りの松原は、海に向かって上り勾配になっているという。


元寇の頃、この松原の線いっぱいに、鎌倉武士達が築いた防塁が有ったところである、否、有ったのではなく、今でも有る。 
防塁は、石で築かれ、高さが2m位であったが、その後、土砂に埋まり4, 5mの丘状をなしているという。そのため石塁は風化されずに、今でも当時のままの真新しい状態で発掘され、掘れば松原のどこにでも有るという。



さて、時は鎌倉期、執権・北条時宗の時代である。
そのころ、(げん・中国)のフビライは、日本を征服する意図でたびたび使者をよこしたが、時宗は強い態度でこれを拒絶した。 
広大な領土を支配した元のフビライ-ハンは、高麗を征服したのち、日本を従属しようとして使者を送ったが、執権・時宗はこれを拒否し九州の防備を固めた。

1274年、元・高麗の連合軍が対馬・壱岐を襲った後、博多湾の沿岸に上陸した。元軍は火薬を使い、戦闘具や戦闘力は彼らが圧倒的に優れていて、しかも、集団戦法で日本軍を苦しめた。 
浜辺は、たちまちにして元軍による鎌倉武士たちの死者塁々とした惨状を呈した。
死者の数は元軍2万人、九州の武士団はせいぜい1万足らずとも云われるが、日本軍の敗戦は明らかで、遂には後方の大宰府の水城近くまで退却した。
幸い、日没前後に元軍は艦船に引揚げ、その夜半、一大暴風によって艦船の殆どが転覆、元軍は大打撃をうけ、侵攻は頓挫したのである。
これを「文永の役」という。

この経験をもとに主要な沿岸各地に武士はもとより、老若男女総動員で2m足らずの石塁を延々と築いた。 
この今津の浜は主に南九州の大隈、薩摩の武士が受けもったという。
そして予想通り7年後に、再び彼らはやって来た。


1281年、元軍は新たに江南軍(中国の南宋の軍)も加え、朝鮮と中国本土の二方面から北九州へ攻め寄せた。 
元は14万の大軍を二手に分けて、再び対馬・壱岐・博多湾を襲った。
一っ飛びすれば飛び越せそうな2m足らずの石塁で、世界最強の帝国・侵略軍を防ごうというのであった・・が、この防塁は実によく役立ったのである。 
元の上陸軍は悉くこれに引っかかり、内陸侵攻を阻まれたのである。 

その日の戦闘が終わると、船に戻らざるをえなかったし、夜は日本軍の小船によるゲリラ戦に悩まされた。 
2度、3度と上陸侵攻を試みたが、日本軍は先の経験を生かし、善戦し、又々、防塁に阻まれた。 
遂には、再び大暴風雨の神風が襲い、自然の猛威によって蒙古軍を殲滅するのである。
これを「弘安の役」と称した。


次回、佐賀唐津城へ

  
「日本の世界遺産の旅の記録」へリンクします








【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
NatenaBlog(ハテナ・ブログ)    GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ    seesaaブログ   FC2 H・P   gooブログ   忍者ブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)  日本温泉紀行 

【日本の世界遺産紀行】   北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観   奥州・平泉   大日光紀行と世界遺産の2社1寺群   

東北紀行2010(内陸部)    ハワイ旅行2007   沖縄旅行2008   東北紀行2010   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002   日光讃歌



【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   南ア・仙丈ヶ岳(1976年)   南アルプス・鳳凰三山   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   尾瀬紀行(1973年)   日光の山々   大菩薩峠紀行(1970年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   奥秩父・金峰山(1972年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「山旅の記」   「山の歌」   「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」   「日光の自然」



関連記事



旅のリンク集
・・

orimasa2005

Author:orimasa2005
【旅のリンク集】・・・

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
seesaaブログ
FC2 H・P   
gooブログ    
yahooブログ 



《旅の紀行・記録集》・・・

「旅行リスト」
日本周遊紀行「東日本編」
日本周遊紀行「西日本編」
日本周遊紀行 (こちらは別URLです)・・・

【日本の世界遺産紀行】・・ 
北海道・知床・・  
白神山地・・ 
紀伊山地の霊場と参詣道・・ 
安芸の宮島・厳島神社・・  
石見銀山遺跡とその文化的景観・・ 
北海道・知床・・
大日光紀行と世界遺産の2社1寺群・・



ハワイ旅行2007・・
沖縄旅行2008・・
北海道道北旅行・・
北海道旅行2005・・
南紀旅行2002・・

【山行記】・・・
《山の紀行・記録集》・・・

「山行リスト」 ・・
白馬連峰登頂記(2004・8月)・・
八ヶ岳(1966年)・・
南ア・北岳(1969年)・・
北ア・槍-穂高(1968年)・・
谷川岳(1967年)・・
丹沢山(1969年)・・
西丹沢・大室山(1969年)・・
八ヶ岳越年登山(1969年)・・
西丹沢・檜洞丸(1970年)・・
丹沢、山迷記(1970年)・・
上高地・明神(2008年)・・

《山のエッセイ》・・・
「上高地雑感」・・
「上越国境・谷川岳」・・
「丹沢山塊」・・
「大菩薩峠」・・

カレンダー
04 | 2016/05 | 06
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
最新記事
カテゴリ
お楽しみコーナー
, , , ,